自衛隊ニュース
日本防衛の核心としての自衛官
‐人的基盤はいかにあるべきか‐
<第8回>
笹川平和財団日米・安全保障研究ユニット総括・交流グループ長 河上康博(元海将補)
提言4
自衛隊の組織改革への提言
第6・7回では人的基盤に係る海外事例を紹介した。第8回から提言の紹介に戻りたい。今回は4つ目の提言である「厳しい人口減少時代を乗り切るための自衛隊の組織改革」について提言したい。
日本が防衛力における人的基盤の強化を図らなければならないそもそもの目的は、将来にわたり万全の防衛力を構築し、日本を守り抜くとともに、地域や世界の平和と安定に寄与することである。言い換えるならば、世界で最も厳しい安全保障環境下にある日本が、少子高齢化による深刻な人手不足に対応しつつ、将来においても国を防衛し続けることで、その繁栄とともに島国日本にとって重要な国益ともなる地域と世界の平和を守り抜くことである。そのためには、人的資源に係る自衛隊自身の組織改革も必要であろう。
この人的資源の観点で改革すべき事項として、次の3点がある。
まず、「自衛隊の組織を自衛官でしか担うことができない分野に特化した組織へ改編すること」である。
現代戦はハイブリッド戦であると言われ、軍事・非軍事の境界線がないという大きな特徴がある。また、現代戦のもう一つの特徴として、従来の陸・海・空領域と宇宙・サイバー・電磁波という新たな領域の能力を領域横断的に融合させ、その相乗効果によって全体としての能力を増幅することが死活的に重要であるとされている。つまり、領域横断作戦(クロス・ドメイン・オペレーション‥Cross‐Domain Operations)を実現した上で、国防を担うことが必要とされている。陸・海・空の領域では、大きく戦闘分野と戦闘を支援する分野があり、後者においては部外力および予備自衛官を含む退職自衛官を活用し民間に移管できる業務が多く存在する。また宇宙・サイバーの新領域や情報戦等の分野においては軍民融合が重要であり、自衛隊員の特技・技能・資質等を教育する分野や駐屯地・基地の業務においても同様である。自衛隊の業務を自衛官でしか担えない業務、部外力および退職自衛官を活用できる業務に選別し、後者を積極的に民間に移管し、その定員を新たな防衛所要に充てるべきである。加えて民間への移管に際しては、セキュリティ・クリアランス制度の導入や有事において職務遂行(補償含む)できる法律・制度等の改正も必須である。
その第2は、「AI(人工知能)や省人化・無人化装備品の導入による人口減少への対応」である。
統合作戦司令部から第一線の司令部における指揮幕僚活動などにおいては、状況の変化に即応し、自らの能力を最大限に活用するための意志決定の優越の確保が重要であり、AI活用は決定的な意義を有する。さらに現代戦においては、変化の速い状況下で迅速な意思決定をいかに先に行うかが勝敗を左右すると言われている。つまり、観察、状況判断、意思決定、そして行動をいかに迅速に繰り返し行うか、いわゆる「OODAループ」をいかに迅速にまわすかが、勝利の重要な要素となっている。したがって、処理能力の速いAIの活用は、現代戦の勝敗を左右するとも言える。また、平素の広範多岐な業務処理においてもAI活用は有効である。
省人化・無人化装備品の導入は、ロシア・ウクライナ戦争の教訓の一つであり、高度な戦い方も具現できる。そして、AI、省人化や無人化装備品の導入は、人口減少対策の有効な手段ともなる。
そして最後の第3として、「民間の有為な人材を多用する人事教育制度の導入」である。
宇宙・サイバーの領域においては軍民融合の技術が台頭しており、情報・通信・衛星・輸送・衛生・補給・整備等の機能別の分野においては民間との親和性もある。現在は、特に若者を中心に就業の流動性が激しく、「やりがい、成長の実感、キャリア形成」を志向する傾向がある。自衛隊は日本の防衛を担う他の組織に無い高度な技術集団であり、いわゆる「ジョブ型」採用、処遇の改善等をはじめとした施策と相まって、若者の志向をとらえ、民間の有為な人材の確保が期待できる。また、これにより、民間の優れた知見を積極的に取り入れることも可能だ。中途退職し民間で経験を積み、再入隊を希望する者には、その経験を正しく評価した上で、それに見合う処遇で採用すべきである。こうした人事制度は、オーストラリアや英国をはじめとする各国軍でも既に採用されている。これまで自衛隊は、高校・大学等からの新卒者を採用し、入隊から退職までの人事教育管理を主に実施してきたが、今後はこれに加え、あらゆる階級や分野において民間からの採用を積極的に推進すべきである。
読史随感<第186回>
神田 淳
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)とセツのこと
小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)と妻小泉セツをモデルにしたNHK朝ドラ「ばけばけ」が放送されている。明治時代来日し、日本に帰化したイギリス人ラフカディオ・ハーンは日本の文明、日本の文化を非常に深く理解し、世界に発信した人として、日本の歴史に名をとどめている。
ラフカディオ・ハーンは、アイルランド人イギリス軍医チャールズ・ハーンを父とし、ギリシア人ローザを母として1850年、ギリシアで生まれた。両親はハーンが幼い頃離婚し、恵まれない少年時代を送った。1869年アメリカに渡り、新聞社に職を得て文筆の才能を発揮、記者として名声を得た。ニューオーリンズで開かれた万博で日本の展示品に魅せられ、日本行きを決意。1890年、40歳の時来日し、松江中学の英語教師となった。伝統文化の色濃く残る松江を愛し、住み込み女中として働いていた没落士族の娘小泉セツと結婚。熊本の旧制五高、神戸の英字新聞社記者などを経て、46歳のとき東京帝国大学の英文科講師に就任。子供も生まれ、日本への帰化を決意し、小泉八雲となった。53歳のとき帝国大学から解雇されたが、早稲田大学から講師として招聘される。1904年54歳で急逝した。
小泉八雲は繊細な、優しい心を持ち、弱いものに対するいたわりと正義感が強く、日本の文化を愛し、多くの欧米人識者と異なって日本の文明、社会を欧米より劣るとは見なさず、日本の美しさと良さをよく理解した識者だった。八雲は、「日本に、こんな美しい心あります、なぜ西洋の真似しますか」と言った。日本の文化の根底にある神道についても、日本研究者のほとんどが、「神道は宗教の名に値しない、神道には教義もなければ聖書経典もなく、道徳規範も欠いている」と言って神道を認めなかったのに対し、八雲は国民の生活の中に息づいている宗教としての神道を認めた。人は死後、子孫に祀られて神となる。死者の冥福も生者の幸せも、子孫が先祖の祀りごとの義務を果たすことで得られるという、神道における先祖崇拝の宗教性を説いている。
八雲は日本婦人の道徳的精神的美しさを絶賛している。他人のためにのみ働き、他人のためにのみ考え、他人を喜ばせることにのみ幸福感を覚えるような日本婦人。妻としての愛情、母としての愛情より強烈なもの、それは彼女の偉大な信仰から生まれ出る道徳的信念であった、と。八雲はセツに理想の日本婦人を見たのである。八雲はセツに「世界で一番良きママさん」と言った。
私が八雲とセツの伝記を読んで深い印象を受けるのは、セツの自立心である。明治時代の士族の娘はこうであったのかとの思いを強くする。その自立心は昭和、平成の女性よりも確かであるように思われる。
八雲は晩年の著作『神国日本』で、「日本の魅力は、過去の幻影が過去と現在を超えたものを表しているという事実から起こってくる。今後何千年か先に、旧日本の理想によって予表されるような道徳的状態が成就しうるように人間の道が進歩していくかもしれない」、と日本文明の時代を超えた普遍性を示唆すると同時に、以下のような現実論も説いている。「侵略とか奸智の能力をなくしてしまうほど愛他主義に支配されてきた国民は、現在のような世界の情勢下で戦争への訓練、競争への訓練で鍛錬した民族を相手にしては、自分の国の保持もできまい。今後の日本が世界競争に成功するには、その国民性の、あまり人に好かれない特質を頼りにしなければなるまい。そうした特質を日本は大きく伸ばす必要があろう」
(令和7年12月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii‐nihon.themedia.jp/)などがある。
操縦席からの回顧録
~大いなる空へ夢を乗せて~
手記:井上 正利(監修:芦川 淳)
<第6回>ついに合格!受験5回目のラストチャンス
写真=陸曹航空操縦学生課程の教育は、航空学校宇都宮分校(北宇都宮駐屯地)で実施される
昭和59年(1984年)、25歳の春に私はラストチャンスとなる5回目のFEC試験に臨んだ。1次試験(学科)は合格、2次試験の航空適性検査も合格、続く航空身体検査では、血圧が少し高めでヤバかったが、測ってくれた看護師が年輩の女性だったせいか、かつて航空自衛隊の航空学生を受験したときのようにピュ~ッと血圧が上がらずに済んだ。ちなみに2次試験では、ロールシャッハ・テストや操縦席からの景色を写した連続写真を見て操縦桿と方向舵の操作・連携などを問う姿勢状態知覚などを検査する。実際に飛行すれば適性の有無は一発で判るが、すべての受験生にそれを実施するのは時間的にも難しいのだろう。
航空身体検査では頭(脳波など)から足のつま先までキメ細かく検査され、肛門や睾丸までシッカリと触手検査をするのには驚かされたが、これを不愉快だと感じるのは医官も同じだろう。眼科関係だけでも10種類前後の検査があり、眼球内部も調べられる。その後、3次試験で体力検定(当時は100m走、懸垂、走り幅跳び、ソフトボール投げ、1500m走の5科目)があって大汗をかいてこれをクリアー、さらに面接へと続いた。
面接では、パイロットを志望する動機といった月並みな質問から、入校後の厳しい訓練や幹部自衛官(合格すれば4年後には3等陸尉に任官だ)になることの心構えまで矢継ぎ早に質問される。なかには「初級幹部になるにあたって精神面でもかなりハードに鍛えられるが本当に大丈夫なのか?」などと、半ば脅されるような雰囲気での面接であった。
以前の面接ではアガッてしまい、質問を覚えられずに何度も聞き直すような経験もあったが、部隊で面接練習を重ねていくと動揺することなく一つ一つの質問に明快かつ丁寧に回答できるようになった。こうした部隊でのフォローアップなど、自衛隊はホントに面倒見の良い組織だと思う。実際の面接時には、言葉の端々に「絶対にパイロットになってやる!」というか、「俺をパイロットにしないと陸上自衛隊航空部隊の損失だぞ!」という強い意志と情熱を散りばめた訴えを投げつけた。
最終結果の発表は4カ月後の7月頃であったと記憶しているが、その間は淡々と整備士としての日常勤務を続けつつ良い知らせを待った。そしてついに果報がやって来た!当時は六本木にあった陸上幕僚監部から各方面隊経由で合否が伝達され、結果は合格!同時に「航空学校宇都宮分校へ入校せよ」という辞令が下った。「石の上にも3年、そして退かざる者は必ず進む」である。最後まで諦めないで良かった…やっと自分の夢の入口の扉に立つことが出来たのだ。最後まで自分を信じ続けて良かった…。
何度もFEC試験に落ちて挫折を味わい、一年に一回しかないチャンスを諦めずに食い下がり、這い上がってやっとの思いでつかんだ…4度目の不合格のときには本当はパイロットには向いていないのではないかと弱気になったりもしたが、あの小学生のときの操縦室での原体験を忘れることは出来なかった。試験に落ちた時の挫折感の大きさは一言では言い表せないが、夢を見続け現実に向き合い、自己分析をし、反省をし、計画を何度も何度も立て直し、喰らい付いて最後まで諦めなかった自分を誉めたいと思う。
これで長く夢見ていた大空への通行手形が手に入った。これからどんな世界へと入っていくのだろうか? 不安と期待とが交錯しながら、大空への扉を拓く刻(とき)が遂に訪れた。かくして昭和59年9月、夢と希望を膨らませ私は栃木県の宇都宮に向かった。陸上自衛隊航空学校の宇都宮分校(平成14年に宇都宮学校に改称)に入校するためである。
入校すると、すぐにまた厳しい航空身体検査と脳波の検査が行われたが、実はその時点ではまだ操縦学生に任命されておらず、この関門を通過してやっと正式に学生となることを知らされた。ここまで来たらもう腹を括って臨むしかない…しかし、午前の部では緊張のなかで頑張れたのだが、午後の部ではいつのまにか瞼が貝のように閉じていたようだ…脳波検査中に検査機の針の動きがピタリと止まってしまい、「検査中に寝ているとんでもない奴が居るぞ!」と検査官の怒声で目を覚ますという失態である。原因は昼食のカレーライスであったことは間違いない。1発目の検査は脳波のデータが取れずに再検査となってしまったが、やり直して結果的には合格。ホッとひと安心である。
井上正利(いのうえまさとし)少工校20期生。
陸自では希少な固定翼機操縦士として緊急患者空輸等で活躍(総飛行時間4967時間)、現在は航空会社の那覇営業所長と安全推進室長を兼任