自衛隊ニュース
国際貢献…地域の平和と安定のために
写真=若林政務官から激励を受ける隊員たち
パプアニューギニア軍楽隊を支援
8月7日、陸上自衛隊中央音楽隊の6人と防衛政策局インド太平洋地域参事官付の2人が、パプアニューギニアに対する軍楽隊育成分野の能力構築支援事業に伴う派遣に際し、若林洋平政務官に出国報告を行った。
同国に対する軍楽隊育成支援は、軍楽隊の基盤づくりから始まり、10年以上にわたり継続している。その間、自国で開催されたAPEC(アジア太平洋経済協力)での演奏や自衛隊音楽まつりへの参加、自国主催による軍楽祭の開催など、着実に成果を積み重ねてきた。
近年では、演奏技術の指導にとどまらず、「将来的に自主的かつ自立的に部隊を維持及び発展」できる体制の構築を後押しするため、編曲者や指導者の育成へと支援の重点を広げている。
若林政務官は、「同国は『自由で開かれたインド太平洋』構想においても重要な国であるとともに、本事業を10年以上継続できていることは非常に素晴らしいことだ。ぜひ頑張ってきてほしい」と激励した。派遣期間は8月15日から9月9まで。
UNTPPケニア
任務完遂し帰国を報告
国連三角パートナーシップ・プログラム(UNTPP)の一環として、6月15日から7月24日まで、ケニアの首都ナイロビにある人道平和支援学校(HPSS)で、国連PKOミッションなどに派遣される工兵要員候補者を対象に、重機の操作・整備に関する教育を行っていた陸上自衛隊の教官団23人が帰国した。団長の竹森博哉3陸佐以下4人が、防衛省を訪れて荒井正芳陸上幕僚長に任務完遂と帰国を報告した。
荒井陸幕長は「この経験を精強な陸上自衛隊を創造するために還元してほしい。また、個人としても今後の人生に役立ててほしい。期待している」と述べ、教官団の労をねぎらった。
竹森3佐(施設科)は、「日本での日々の訓練が世界でも通用すると実感するとともに、陸上自衛隊の物品管理や安全管理の方法を教育し、効率的な訓練生の技能習得に貢献できた」と振り返った。永田裕也3尉(武器科)は、「職種は違うが、教官団長を補佐することができたと自負している。また、訓練期間中、現地のアフリカの方々の優しさや温かさを感じる日々だった」と語った。
佐々木優一曹長(施設科)は、「今後も続いていくこの施設訓練のため、今回得た教訓を伝えていきたい」と今後への思いを述べた。
神谷桃香3曹(施設科)は、「アフリカの訓練生は、いつも笑顔で元気よく挨拶をしてくれた。当たり前のことかもしれないが、それがとても嬉しく、感銘を受けた」と現地での交流を振り返った。
ノーサイド
北原 巖男
あせりました!
8月7日、ある集まりで東ティモールについて説明する機会に恵まれました。事前の打ち合わせのため初めてお会いした主催者は、とても元気な女性。
主催者「演題は、いかが致しましょう」
私「お任せします」
主催者「・・・では、『東ティモールって、なに?』で、どうでしょうか」
私「・・・分かりました。結構です」
主催者「これまでの講師は、いずれもパワーポイントを使っていますが」
私「はい、用意いたします」
これまで「東ティモール概要」とか「東ティモールの今」「東ティモールの課題」などのテーマで、話してきたことはありますが、「東ティモールって、なに?」は、初めて。
正直、ショックでした。大ショックでした。
日本社会における東ティモールの馴染みの薄さという紛れもない現実を、全く忖度無しの剛速球でズバッと投げつけられた瞬間、体全体を駆け抜けた強烈なしびれは、忘れることが出来ません。
帰宅後も、しばらくは、心の中でつぶやいていました。「東ティモールって、なに?かぁ・・・」ジッと椅子に座って机の前の様々な張り紙を漠然と眺めていると、昔、どこかで知ったことがあるアメリカのリンカーン大統領だったような人の言葉がおぼろげに浮かんで来ました。直ぐにインターネットで検索。見つけました。
「私は歩みは遅いが、決して後退しない(I am a slow walker, but never walk back.)」そうです、これです。
主催者は、100名近い人たちが集まるとおっしゃっていました。
「よし、絶好のチャンスではないか。しっかり説明するぞ」説明当日の3日前(8月4日)には主催者にパワーポイントを届ける決意で作業を開始しました。
東ティモールを身近に感じてもらうためには、まず写真だ。沢山入れよう。あれも、これも、伝えたい。パワーポイントの枚数は65枚まで膨れ上がりました。これを、なんとか38枚まで抑え込みました。ここまでが、説明日の5日前の8月2日。後は、更に精査・再考し、最終案を作るだけ。暫時休憩です。
その間、妻が、待っていましたとばかりにパソコンを占領。どのくらい時間が経ったか分かりません。突然、彼女の大きな声。「やられた!」。パソコンに変な文字画面が出て、パソコンは、完全にフリーズ。操作不能に。画面掲載の電話番号に至急電話するようにとの表示。音声は出ていません。彼女曰く「うるさいからスピーカーはボリュームゼロにして見ていた。変なのを見ていたわけじゃないからね!わたし」と強調・断言。小生「・・・御意」
以前もこのようなことがあったな、と甘く考えていました。とにかく全てのコードを抜いて、パソコン内の電気が完全に消えるのを待てばいい。念のため、いつもお世話になっているパソコンに詳しい知人に連絡しましたが、運悪く連絡は取れませんでした。
・・・半日くらい待ったでしょうか。画面は真っ暗で、マウスを動かしても反応はありません。もう大丈夫と思って、電源を入れました。なのに、何故だ。出て来たのは、再び同じ変な文字画面。あせりました。消えていないのです。妻が音声をゼロにしていたせいで電力消費が小さく、すべて消えるまでにはもっと時間がかかるのだろう。そう考えて、更に夜まで放置。
ところが、ところが。また同じ画面が現れたのです。こうなると、あせりも尋常ではなくなります。正に天国から地獄。しかも、小生が焦りまくっているにもかかわらず、妻は「そのうち直るわよ。あなたはついてる人だから」と、どこ吹く風。まるで動じません。筆者の頭に血が急上昇して来ます。
既に夜9時を回っていましたが、やむを得ず主催者の事務局長に電話し、パワーポイントを用意出来なくなるかもしれない旨伝えました。「ご心配いりません。パワーポイントは無くても、大丈夫ですよ。レジメを作って頂けたらと思います」とのこと。事務局長は、その後、パソコンに詳しい方に連絡を取ってくださったようです。直ぐにその方から、まずネットからの遮断を行ってくださいとの連絡もいただきました。途方にくれる中で、長い一日が過ぎて行きました。
更に一晩置いた翌朝。ビクビクしながらパソコンに電源を入れました。息詰まる緊張・・・復帰です!戻った!戻ったのです!
すぐに、事務局長とパソコンに詳しい方に連絡。一様に「良かったですね」と温かいお言葉。本当に嬉しかったです。直ちに作業再開。完成したパワーポイントは、予定よりも一日遅れの8月5日に主催者にお送りすることが出来ました。
パワーポイントの最後は、作家司馬遼太郎さんの有名な著書名を拝借して締めくくりました。
あの『坂の上の雲』をめざして
・・・Please do not overlook Timor‐Leste. 当日参加された皆さんが、少しでも身近に感じる機会になったと思ってくださったら、こんなに嬉しいことはありません。
北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事
読史随感<第203回>
神田 淳
日本史にみられる平和思想
日本は和の国だとの国家認識(ナショナルアイデンティティ)に多くの日本人は同意するのではなかろうか。和服、和食、和菓子、和風、和洋折衷などに見られるように和は日本を意味する。大和と書いてやまとと読み、大和民族は日本民族を意味する。また、大和言葉は日本語のことだが、漢語や外来語を除いた(本来の)日本語の意味で使われる。古代の飛鳥時代、聖徳太子が十七条憲法を国の形として定め、その第一条が「和を以って貴しとする」であることは日本人なら誰でも知っている。
日本の長い歴史の基調は和である。1万6千年前に始まり1万3千年ほど続いた縄文時代、戦争はなかった。戦争が起き始めたのは、紀元前8百年頃始まった弥生時代からである。日本の歴史を古代から現代まで俯瞰して、単純に平和の歴史とはいえないが、基調は平和だったといえるのではないだろうか。ヨーロッパ、中国に較べて、戦争件数は圧倒的に少ない。
近世の江戸時代、260年日本は平和だった。パックストクガワナ(徳川による平和)と呼ばれ、世界史に特筆される。
戦国の最終勝者となって幕府を開き、元和偃武(元和の時代、武をやめる)の時代を切り開いた徳川家康は現実的平和主義者だった。戦乱の世の悲惨さを知る家康は平和を求め、長期にわたって戦争を起こさない政治秩序をつくりあげた。生類憐みの令で有名な5代将軍綱吉は、強い偃武思想の持ち主だった。綱吉の時代、平和で華やかな元禄文化が花開いた。
武士道は平安時代に弓矢取る身の習いとして発生し、江戸時代に完成した武士(=戦闘者)の倫理であるが、決して好戦的な倫理ではない。武士道は戦場で死を覚悟して勇敢に戦う倫理を当然含むが、同時に仁、惻隠の情、弱者への思いやりの倫理を重視し、我利に走らず、礼節、誠実、人の信頼、自他の名誉を重んじた。武士道は和を倫理として特掲はしないが、明らかに人の和を重要な価値として内包している。
武士道は戦わないための強さをつくる精神の体系でもある。「武」は「戈(ほこ)を止める」と書き、武力は本来争いを止めるための力を意味する。
戦国から江戸時代に深められた日本の武道に非戦の思想が見られる。剣豪柳生宗矩は徳川将軍家の剣術指南役となり、幕府の軍事顧問のような立場にあったが、戦乱が終わった泰平の世では、武士は戦場で刀を振るうのではなく、「心を治め、人を治めるための剣を学ぶべき」と説いた。宗矩は『兵法家伝書』で殺人刀(せつにんとう)と同時に活人剣(かつにんけん)を説いた。活人剣は、「一人の悪を殺して万人を生かす」剣であり、平和のための力の行使の正当性を説く。宗矩は言う、優れた戦術とは、非常事態に即応できるよう戦闘態勢を整えているが、決して軍勢を動かさないことである。武器の使用は万難を排して避けるべきであり、武器使用に自制を働かせる力が大きいほど支配者としての徳はそれだけ大きくなる、と。
徳川家康は柳生石舟斎の評判を聞き、無刀(素手)の石舟斎と木刀で3度立ち合ったが全く勝てなかった。感銘を受けた家康は剣術指南役にと懇請したが、石舟斎は高齢を理由に断り、息子の宗矩が任に就いた。政治家家康は柳生新陰流の奥儀とされる無刀の剣技に統治の要諦を見出したのである。柳生宗矩の、「すぐれた戦術とは戦闘態勢を整えているが決して軍勢を動かさないこと、武器の使用は万難を排して避け、自制を働かせるほうが支配者の徳は大きくなる」との思想は、現代なお有効な平和戦略となるのではないだろうか。(令和8年9月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii‐nihon.themedia.jp/)などがある。