自衛隊ニュース
日本防衛の核心としての自衛官
‐人的基盤はいかにあるべきか‐
<第5回>
笹川平和財団日米・安全保障研究ユニット総括・交流グループ長 河上康博(元海将補)
提言3
自衛官の処遇の改善
(その2)
前回第4回の「自衛官の処遇の改善(その1)」では、「国家補償年金制度(仮称)」の創設(例‥自衛官年金の3階建て制度)の検討および「有事に必要な制度の再検討」について取り上げた。それに続き第3の提言は、「平素および有事における自衛官家族への厚生支援の制度化」である。自衛官は厳しい制約の下、生命を顧みず危険で困難な職務に従事するという職務上の特殊性を有することから、自衛官家族に対する厚生支援も重要である。また戦場心理として、円満な家族のもとにある兵士は、精強であるといわれている。すなわち、自衛官が精強であるためには、安心して戦えるよう、平時・有事ともに、政府として自衛官のみならず、家族をしっかりと保護する制度も必要である。すなわち、戦力としての家族支援である。
有事における制度としては、殉職者遺族に対する補償(第4回「第2の提言」参照)も含まれるが、自衛官の精強性維持のためにはそれ以外にも、米軍をはじめ多くの軍隊で制度化されている軍人家族に対する支援と同水準の、自衛官家族への支援制度の設置が必要である。
また、平時においても、例えば米国の軍人およびその家族が安価な日用品を購入できるPX制度[Post Exchange‥基地内の売店、艦艇内売店など]、ドイツや韓国で軍人が家族のもとへ帰宅・帰省する場合の列車運賃の無償化を参考に、日本の社会・生活環境およびそのニーズに合った、自衛官家族に対する厚生支援について、再検討する必要がある。
そして第4の提言は、「部隊教育の強みを活かした個人のキャリア向上に繋がる教育」の創設である。日本をはじめ、米国・英国・ドイツ・オーストラリアなどの諸外国においても軍人の採用難は共通している。こうした中、他国では軍における教育・職業経験がキャリア上の魅力となって募集に寄与している。例えば、英国では、仕事上即戦力となる人材が求められることから新卒採用を継続している企業は少ない。一方、軍は新卒採用を継続的に実施している数少ない組織である。社会人としてのマナーや体力トレーニングおよび技術的なスキルアップ教育の機会を提供できることは、採用対象者への魅力化に繋がっている。つまり、軍に入隊することには金銭以上のメリットがあると考えられている。
自衛隊においては、現在、士採用者は約3カ月の短期教育期間が設けられているが、自衛官育成に特化しがちであり、必ずしも社会人・職業人としての教育や退職後の再就職を考慮したものではない。
入隊後の教育を活用し、社会人として求められる基礎教育や体力トレーニング等に加え、AI(人工知能)・サイバーといった社会で求められる専門的スキルを高める教育を実施すれば、採用対象者にとっての魅力となるのみならず、部隊の精強性の維持にも繋がる。また、部隊教育の魅力化により、再入隊や民間からの応募・採用の増加も期待できる。さらに、自衛隊での教育を経た人材が退職後に社会で活躍し、また予備自衛官となれば、日本防衛の体制強化、そして社会基盤の強化にも繋がる。
読史随感<第183回>
神田淳
議会制民主主義の統治能力について
高市早苗自民党総裁が10月21日、国会で内閣総理大臣に指名された。我が国初の女性首相の誕生である。高市さんは10月4日自民党総裁に選出され、国会での首相指名は15日に予定されていたが、公明党の与党離脱があって、首相指名候補の一本化協議が難航し、指名が21日まで延期された。維新の会の与党化もあり、調整が進んで、高市内閣が誕生したことを喜びたい。しかし、高市内閣は少数与党で安定せず、決められない弱い内閣になる懸念もある。
イギリスでは、日本のように国会において首相選出はなされない。下院(庶民院)で多数を占めた政党の党首が国王から首相に任命され、内閣を組織する。国王の任命行為は形式だけだから、庶民院の議席数最多の政党の党首がそのまま首相となり内閣をつくる。これが慣例として確立しており、破られることはない。イギリスは近代、議院内閣制に代表される議会制民主主義を生み、この制度のもとで発展してきた国である。日本もイギリスのやり方を学んでよいと思われる。
議会制民主主義は、近代最良の政治制度と見なされるが、実際の運用は非常に難しい。歴史を振り返ると、戦前、日本は議会制民主主義による統治に失敗した歴史をもつ。大正年間(1912‐1926)、大正デモクラシーが実現していた。また、1924年から1932年まで、憲政の常道といわれる、二大政党(立憲政友会と憲政会)が交互に政権を担う政党内閣が不十分ながらも実現していた。これが定着しなかったのは、軍部の台頭(軍国主義)と政党政治への圧迫、世界的な民主主義の後退(ファシズムの台頭)、当時の憲法(明治憲法)の限界などが言われるが、直接的には、政党に基礎をおく内閣の力が弱く、内閣が軍部を押さえることができなくなった結果である。結局、民主主義による統治力の不足である。その背景に、党利党略に終始し、財閥と癒着する政党(そう見えた)を国民が信頼しなくなったことがあった。
昨今世界的に民主主義が後退している。日本は民主主義を後退させることなく、堅持すべきと固く信じるが、議会制民主主義の運用はもともと難しい。常時運用を改善しながらこれを進める他ない。歴史的な反省から、強い内閣をつくるのが改善策となる。この観点から国会での審議のあり方を改善する必要があると私は感じている。まず、国会が首相をはじめとする閣僚を拘束する時間が長すぎる。そして質疑の多くが、政治、政策の本質的に重要なポイントから外れている。国会は野党のパフォーマンス披露の場となっている。ちなみにイギリスでは首相の議会出席は毎週30分の首相質問が主で、日本のように予算委員会で長時間拘束されるようなことはない。また閣僚の出席も担当分野に応じて限定的である。イギリスでは内閣が議会の議事日程を主導する権限をもち、法案審議が効率的、実質的に行われるといわれる。日本はイギリスから学んでよいのではなかろうか。そしてもう一つ、国会での審議時間を徹底的に短くするという改革案があるのではなかろうか。これは企業経営の経験から来る。会議は可能な限り短い時間で行うのが良く、それで企業の業績が向上する。同じことが国家の運営に言えないだろうか。
高市内閣が強い内閣となって、国民の望む、良き政治の実現を期待する。
(令和7年11月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii‐nihon.themedia.jp/)などがある。
操縦席からの回顧録
~大いなる空へ夢を乗せて~
手記:井上 正利
<第3回>少年工科学校の生活は勉強三昧?
写真=昭和49年、筆者はパイロットへの道を信じて陸上自衛隊少年工科学校に入学した
パイロットを目指す私がまず選択したのは少年工科学校に入学することだった。昭和49年に20期生として入学したが、全寮制の学校生活はかなり厳しく、中間・期末・実力試験で少しでも規定を超える赤点を取ると留年するので、とにかく毎日寝る寸前まで勉強していたことを強く記憶している。自習室は、試験の直前であろうと深夜24時で閉鎖されるので、それ以降はトイレの明かりを頼りに勉強をした。受験勉強以外の学校生活でそんな経験をしたこともなく、予想外の生活に面食らったが、何かで悩んでいる暇もなくとにかくアッという間に時が過ぎていった。
ちなみに試験の勉強は、普通学科目(現代国語、古典、数学、物理、化学、倫理、社会、英語)を重点的に勉強し、さらにそこから苦手科目や赤点・欠点が許されない優先科目を狙って時間を割く一方で、それほど重要でない防衛学科目なんかは一夜漬けに近かった。
こうした無我夢中の努力が実を結んだのか、入学時は学年で最後尾付近をウロついていた学業成績は入校半年を過ぎた辺りから徐々にアップ、学年でも上位に食い込むという成果が出るようなった。順位というのは、1位をキープするよりもどん底から這い上がる方こそ気が楽に思え、それからは学科試験が楽しみに変わっていったが、中学生の頃のアホな自分の姿からすれば嘘のようで優等生ぶりであった!
少年工科学校では、必ずスポーツクラブに入部しなければならないという規則がある。私は杖道部(現在は廃部)に入った。なぜこの部を選んだかというと夏・冬休みに合宿が無かったことも理由の1つであるが、のんびりしてクラブの雰囲気があくせくしてなかったのが一番の理由だったように思える。
ただ実際に入部すると練習は厳しく、体力的にも辛かったが、これも修行だと思い何とか歯を食いしばって3年間を耐え抜いた。あまりにもツライときは、上級生に見つからないよう自分のロッカーに潜んでサボることもあった。同期生に頼んで外から鍵をかけカムフラージュするのだが、ある日、そのままロッカー内で寝落ちしてしまい、鍵をかけた同期もそれを忘れるという事件が起きた。結果として「井上が行方不明になった!」と大騒ぎになったことは言うまでない。
クラブ活動は正直辛かったが、ハードな運動のおかげで知らないうちにパイロット向きの身体が育ったように思える。年齢を重ねた今となっては身体が基本、基礎体力は本当に大切であるとしみじみと痛感、このときの体力練成に感謝している。
2年生の終わり頃になると、職種を決める査定のようなものが始まる。私は航空科一本で頑張りますと教官に豪語していたが、入学後2年間の地道な努力が大きく評価されたようで特に問題もなく希望の航空科へと進んだ。そして3年生になって航空科に入ってからは、航空力学・ジェットエンジン・流体力学・航空機材料・航空電子などの基礎を普通学科と並行して1年間学んだ。
段々と難易度を増す学科の授業に幾度となく挫けそうになったが、当時の私の区隊指導担当であった佐伯教官(福岡県田川市出身で防大卒のエリートだ)が出来の悪い私を懇切丁寧に指導して下さり、数学や物理など苦手科目を克服することができた。入学直後は落第ギリギリのラインでクビが繋がっていたと思われる私がこうしてパイロットになれたのも、アフターファイブの時間を割いてまで面倒を見てくれた佐伯教官のお陰であり、生涯で一番の恩師であると思っている。この指導を通して諦めない地道な努力を身に付けることができたことをいまでも深く感謝している。少年工科学校では、「質実剛健」「明朗闊達」「科学精神」の校風のもと、「努力を惜しまない、最後まで諦めない精神力」を叩き込まれたが、体得したことは大きな学びであったと思う。
そして3年生になると、ついにパイロットへの道の最初の登竜門がやって来た。それは一般の高校卒業見込者を対象とした「航空学生」の募集である。航空学生は、海上自衛隊や航空自衛隊のパイロットのメインソースであり、海上自衛隊の哨戒機や航空自衛隊の戦闘機のパイロットの大部分は航空学生の出身者だ。制度上は、少年工科学校の3年生時に受験することが可能なので、私も航空自衛隊で受験しようとしたら、なんと教育隊長から「受験はならん!」との仰せを頂いてしまった・・・。
井上正利(いのうえまさとし)少工校20期生。
陸自では希少な固定翼機操縦士として緊急患者空輸等で活躍(総飛行時間4967時間)、現在は航空会社の那覇営業所長と安全推進室長を兼任