自衛隊ニュース
日本防衛の核心としての自衛官
‐人的基盤はいかにあるべきか‐
<第4回>
提言3
自衛官の処遇の改善
(その1)
笹川平和財団日米・安全保障研究ユニット総括・交流グループ長 河上康博(元海将補)
社会基盤の強化の必要性や自衛官の特殊性を再認識した上で、本研究会の提言では、自衛官の処遇改善について、政府・防衛省が実行している「基本方針」における施策以外で必要なものを取り上げている。
その第1の提言は、「国家補償年金制度(仮称)の創設(例‥自衛官年金の3階建て制度)の検討」である。国防に任ずる現役自衛官の処遇の改善は、上記「基本方針」で実行されつつあるが、退職後の特別な処遇についても検討が必要である。例えば米国軍人の場合、退職後の給付として、確定給付(全額国庫負担)、確定拠出(労使双方負担‥税制優遇あり)、さらに社会保障給付制度(いわゆる国民年金)がある。また、本研究会での海外調査において、英国・ドイツ・オーストラリア・シンガポールでも同様の軍人恩給(pention)制度があることを確認している。一方、わが国においては、他国と同様の自衛官を優遇する制度はない。このような事情を踏まえ、「基本方針」で取り組んでいる若年定年による所得の不利益のさらなる軽減に加え、あるいは現行の若年定年給付制度も取り込んだ、自衛官の厳しい職務と厳格な義務の代償としての「国家補償年金制度(仮称)」の創設(例‥自衛官年金の3階建て制度…一般的な厚生年金や国民年金に加え国庫負担による3階部分を給付)を提言するものである。これは諸外国と同様に、自衛官の勤務期間などを考慮して支給される。さらに今後紹介する「提言5‥予備自衛官制度の大胆な見直し」と連動するものとして、退職自衛官(一定の期間を勤務した中途退職者を含む)を平素からの貴重な人的防衛力ととらえると、より多くの退職自衛官が予備自衛官等となる制度が求められる。この制度を側面的に支援するため、退職後一定の期間、予備自衛官等として自衛隊の活動を支援するその貢献度により、3階部分である国庫負担による支給率を変動させることも必要である。
第2の提言は、「有事に必要な制度の再検討」である。そもそも防衛力における人的基盤を強化する目的は、国防のための抑止と対処であることから、昨今の安全保障情勢を踏まえれば、「基本方針」の施策に加え、有事における適正な「防衛出動基本手当」や「防衛出動特別勤務手当」の具体化や負傷自衛官および殉職者遺族等に支給する年金等の再検討などが求められる。平時には防衛省共済組合の予算で対応できるものであっても、有事には予算的に賄えないことも想定される。さらには自衛官の特殊性に見合った名誉を付与するため、現行の防衛記念章や防衛功労賞に加え、「現役叙勲」も必要である。このような自衛官の特殊性を考慮した制度改革と同時に、有事に必要な制度の準備も今から検討しておく必要がある。
読史随感<第182回>
神田淳
坂下さん、北川さんのノーベル賞受賞に思う
今年、坂下志文大阪大学特任教授がノーベル生理学医学賞を、北川進京都大学特別教授がノーベル化学賞を受賞した。一人の日本人として受賞を誇りに思う。坂下さんは、免疫系が自己を攻撃しないように働く「制御性T細胞」を発見。がん免疫療法、アレルギーの治療、臓器移植の拒絶反応抑制など幅広い医療分野への応用が期待されるという。北川さんは、多孔性材料「MOF(金属有機構造体)」を開発。MOFは環境、エネルギー、医療など多岐にわたる分野で新たな可能性を開くという。
近年、日本人のノーベル賞受賞が増加した。自然科学分野の受賞者総数を見ると、アメリカ285人、イギリス89人、ドイツ73、フランス39、日本27、スイス18、スウェーデン18、オランダ15、ロシア・旧ソ連15となっている。アメリカが圧倒的に多く、英独仏が続き、次が日本である。ノーベル賞は文学賞、平和賞もあるが、自然科学(物理学、化学、生理学医学)の受賞者数は国の科学技術の真の力を表していると私は思う。アメリカが増えたのは戦後であり(戦前は18人に過ぎない)、戦後のアメリカの受賞者数267人はアメリカの圧倒的な科学技術力を示している。また、今世紀に入って2001年から現在までを見ると、アメリカ90人、イギリス21、ドイツ10、フランス14、日本21、スイス4、スウェーデン2、オランダ2、ロシア・旧ソ連4で、日本の躍進が目立つ。
ノーベル賞級の科学研究は、科学技術の十分成熟した国でなければ生まれない。日本は欧米先進国並みの成熟した科学技術国と評価される。ノーベル賞は例外はあるが、大体二、三十年くらい前の研究成果で、世界的に評価の確立した業績が授賞対象となるので、最近の日本人の受賞も、日本が経済大国で科学技術予算も豊富な時代の成果であって、今国力が衰え、予算も縮小、科学研究の質量とも低下し、今後ノーベル賞受賞者が日本から今までのようには出なくなるのではないかと悲観する声もある。
アジアの経済強国、中国、韓国はどうだろう。中国は現在まで楊振寧と李政道の物理学賞(1957)と、屠呦呦の生理学医学賞(2015)の3人に過ぎない。韓国は自然科学分野の受賞者ゼロである。日本とあまりにも違う。中国ではノーベル賞受賞者がなぜ出ないかに関し、短期成果主義で、研究の自由が制限されて純粋な科学的探究がないといった論評、韓国でも短期成果主義や教育制度の問題などが国内で論評されているが、私は両国の近代国家として出発が遅かったのが基本的理由だと思う。そのため、ノーベル賞を生むような科学文化が十分成熟していない。
しかし、中国の科学技術については最近急速に進歩し、今や中国の科学技術力は欧米や日本に追いつき、既に追い越したとの評価もある。一つの根拠は世界で引用数の多い注目度の高い科学技術論文の数である。文部省公表の科学技術指標(2025)によると、引用数の多い科学技術論文数は、中国がトップで、1年間7万3315本。アメリカがこれに次ぎ3万2781本。以下イギリス8396本、インド7697本、ドイツ6845本と続き、日本は3447本で世界第13位である。二、三十年後、ノーベル賞受賞者数の中国ラッシュの時代が来るかもしれない(それはわからないが)。
先進国の特徴は科学技術力が充実して、成熟した科学文化を持っていることである。日本は先進国として自信をもってよいと思う。また、ノーベル賞において私は改めて西欧文明の先進性を思う。近代科学を生んだのは西欧文明である。科学こそは人類普遍の文化の至宝である。
(令和7年10月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii‐nihon.themedia.jp/)などがある。
操縦席からの回顧録
~大いなる空へ夢を乗せて~
手記:井上 正利
<第2回>夢から目標へ。少年工科学校を目指す
写真=中学生の頃の筆者。少年工科学校受験を機に勉強の虫に大変身
パイロットを目指そうと決意した奄美上空での鮮烈な経験から4年、中学校2年生になった私は高校進学よりも、どうすれば最短距離でパイロットになれるかばかりを考えていた。そして暗中模索を続けていた折に、今は亡き尊敬する叔父から少年工科学校(現在の高等工科学校)の話を教わった。少年工科学校とは防衛庁管轄(当時)の教育機関だ。中学校卒業者を対象に生徒を募集、採用試験に合格すると自衛隊生徒(3等陸士‥当時)に任命され少年工科学校に入校する。そして4年間の教育修了後は陸曹となって、その道のプロとして勤務する普通にはない特色を持つ学校だった。
調べると、2年間の普通学科教育を修了すれば、その後の職種の選定で航空科コースに進めるということも分かり、『ここを卒業出来れば、必ずやパイロットへの道が見えてくる!』と直感、入学志望を心に決めた。当時は、海上自衛隊や航空自衛隊にも自衛隊生徒の制度があったものの、陸上自衛隊だけが部隊の陸曹から直接パイロットを採用していたので迷うことなくこちらを選んだ。
ただ、少年工科学校受験を真剣に考え始めたのは中学2年生からだったので、10歳でパイロットになると目覚めてから大きなタイムラグがあった。なにしろ私は勉強というものが大嫌いで、中学1年生の頃の授業では、ボーッとしているか、消しゴムをカッターで細かく切って鉛筆で打って飛ばすなどアホみたいな事ばかりしていたから仕方ない。学力では周囲に相当な遅れをとっており、塾にも通ったがサボってばかりだったので、後で強制的に家庭教師をつけられる始末だった。家庭教師と聞くと裕福な家に思えるが、兄弟2人で1人分の授業料だったから実際には塾通いより安上がりだったことだろう。
しかし、少年工科学校を目指してからは「このままではマズい」と一念発起、人が変わったように受験勉強に打ち込むようになった。少年工科学校の一次試験は、1月初頭と一般の高校より2カ月も早く、そのぶん早巻きで受験勉強を進めなければならない。昼休みも惜しんで、ひたすら数学や物理などの公式を覚え、基本から応用まで何度も何度も例題を解いて数をこなした。また英語は、単語・熟語の記憶に力を入れて文法は後回しにしたが、この作戦は後の航空無線英語を使うシーンで多いに役に立ったので無駄ではなかったようだ。このときの集中力はいまから思い返してみても凄まじく、文字通り寝食を忘れて勉強に打ち込んで大晦日と正月も休日返上での総復習に没頭した…。
そして迎えた入試当日、生まれて初めての入学試験だった割にはさほど緊張してないように感じていたが、実は緊張していなかったのではなくて、変なタイミングで緊張の糸が切れてしまっていたらしい。受験票を机の上に出し忘れる、筆記具は鉛筆1本しか持ってきていないなど凡ミスを連発、配布された試験問題を見た途端にアタマのなかが真っ白になり、試験は手応えが無いどころか「もう終わった」という敗北感でいっぱいだった。
しかし、それから約2週間後に1次試験合格の通知が届いた時には「馬鹿な俺でもやれば出来る!」と小躍りして喜び、夢の実現の第一歩を踏み出せたことを祝ったが、本当のところは採点官が答案用紙を誰かのものと取り違えたのではないかといまだに疑っている。それぐらい1次の筆記試験はボロボロだったのだ。
その後の2次試験では身体検査・適性検査・面接などを受け、3月上旬に最終の「合格通知」が陸上幕僚監部から私のもとに届いた。嬉しかったのは、「お前みたいにガムシャラに目標に突き進む奴を初めて見た!大丈夫だ、頑張って来い!」と中学校の担任が誉めて背中を押してくれたことで、このことは強く思い出としていまだに記憶に残っている。運も味方をしてくれたのだと思うが、やはり「人間なせば成る」である。諦めずに目標を追えば、そこに勝機が見えてくる。くどいようだが決して夢を諦めてはいけない。
かくして昭和49年4月、桜が満開の中、私は陸上自衛隊少年工科学校の20期生として入学、自衛官としての道に進んだ。福岡から横須賀への旅立ちは嬉しくもあった反面、15歳で親元を離れる不安と期待とが交錯して複雑な心境だった。ちなみに私の期の競争率は20倍を超えていたそうだ…。入学後の素養試験で私は最後尾から5番目位の不出来な成績で、全国レベルの凄さを目のあたりにすることになった。(つづく)
監修・芦川淳