自衛隊ニュース
幹部初 准曹会顕彰「特別級」受賞
垣根を越えた協力が組織力高める<6空団>
写真=中央に安齋2尉。その左隣に小松基地司令の野村将補、右隣に連合准曹会会長の三浦准尉
6月16日、第6航空団(司令・野村信一空将補)において、基地業務群衛生隊の安齋エレナ2空尉が、航空自衛隊連准曹会の顕彰制度における特別級を受賞した。幹部自衛官としては初の受賞となる。
同制度は、准曹会の発展や活動に貢献した会員および、その理念を理解し協力した非会員を表彰するもので、特別級は非会員に対する最高位の区分である。安齋2空尉は、准曹会活動の意義を深く理解し、各種活動や地域行事に積極的に参加するなど継続的に協力してきた。特に、基地准曹会が新規に企画した地域の祭事「安宅まつり」への参加者募集に際しては、自ら率先して参加を申し出ることで准曹士の参加を後押しし、准曹士と幹部との垣根を越えた協力体制の構築に大きく貢献した。その姿勢は隊員間の信頼関係の向上にも寄与している。
初級幹部の今だから学びたい
安齋2空尉は、「地域社会とのつながりが重視される中、基地業務群司令や衛生隊長の姿から学び、将来部隊を率いる立場となった際の在り方を、初級幹部のうちから身につけたいと考えた」と話す。
また、看護官としての専門性を発揮し、小松市民病院での救急外来実習や石川県DMATとの災害医療体制検討に参加するなど、地域医療との連携にも積極的に取り組んできたほか、基地内における献血活動の窓口業務を担い、自衛隊への信頼確保にも貢献した。
今回の受賞について安齋2空尉は、「大変光栄に思う。今後も准曹会活動への理解を深めるとともに、看護官としての能力向上に努めていきたい。その積み重ねが地域との信頼関係を基盤とした継続的な連携につながり、自衛隊と地域社会・地域医療の連携強化に寄与できれば」と述べた。
第6航空団司令の野村空将補は、「幹部自衛官が准曹会活動を尊重し支援することで、准曹士との信頼関係が一層強化される好例である。このような関係性の構築は組織の結束力向上に極めて重要であり、今後の模範となるものだ」とコメントした。
災害に備え地域と連携
百里基地、避難訓練に参加
写真=給食支援を行う隊員
5月23日、百里基地(司令・鈴木繁直空将補)は、土浦市第四中学校で行われた茨城県と土浦市が共催する水害を想定した避難力強化訓練に参加した。会場には茨城県副知事や土浦市長が視察に訪れる中、百里基地は装備品展示のほか、給食支援として約100食分のカレーの炊き出し、自衛官募集に関する展示などを行った。今回の訓練を通じて、災害時における各種支援活動能力の向上を図るとともに、地方公共団体との相互理解を深め、基地周辺住民の航空自衛隊に対する理解促進にも寄与した。
読史随感<第201回>
神田 淳
歴史研究のすすめ
中曽根康弘元首相は、自分を政治家に向かわせたのは歴史の力であったという。必死で政治家をやってきたが、自分の行動を支えてきたのは日本の伝統であり、世界との相関関係の歴史だった。戦後、日本の歴史が軽視、蔑視されるようになった。歴史観なき政治家は国家を誤る。政治家はその所業の結果を歴史という法廷で裁かれる、という言葉を残している。
あらためて歴史を問うと、歴史を学ぶ意義は「過去を理解することによって、現在を読み解き、未来をより良くするための知を得ること」にあると言ってよいだろう。このとき、人間ははたして過去を客観的に間違いなく理解することが可能かという難しい問題が生じる。イギリスの歴史家E.H.カーは『歴史とは何か』で言う。歴史は現在と過去の絶え間ない対話である。過去の無数の事実はそのまま歴史になるのではなく、歴史家により重要と判断された事実が選択され、解釈されて初めて歴史的事実となる。完全に客観的な歴史は存在しない、と。しかしカーは、歴史が選択と解釈の産物だから無意味かというとそんなことはなく、歴史研究は過去の理解を通じて現在社会を深く理解し、未来への展望を開く知的営みであると言う。
あまり難しく考えないで、優れた歴史人物の事績研究も、歴史を学ぶ一つの、有意義なあり方と思っていいのではないだろうか。昭和を代表する実業家松下幸之助は、経営判断に誤ることがなく経営の神様といわれたが、指導者のあり方を歴史からも学んでいる。一例をあげると、親鸞上人はどのような人間もすべて阿弥陀仏の大きな慈悲によって救われるゆえ、心からなる感謝報恩の念を捧げることが大切だと説いた。松下は、感謝報恩の心は人間にとって一番大切な心がまえだが、指導者は特にこの念を強く持たなければならないという教訓を引き出している。
また、源頼朝は伊豆に兵をあげ、一敗地にまみれたあと、一度房総に逃れ、再起を期して各地の武士を招請した。それに応じて一部の豪族は馳せ参じてきたが、頼朝が最も期待し、一番有力な大豪族である上総介広常はなかなかやって来ない。やや遅れて2万の兵を率いてやって来たが、この時頼朝の軍勢は数千に過ぎなかったから、2万の兵を得て頼朝は喜んで迎えたかというとそうでない。いきなり、「なぜ今までぐずぐずしていたのか」と広常の遅参を詰問した。これには広常も味方の大将たちも驚いたが、頼朝はなかなか許さなかった。そのため、場合によっては平家の側に立って頼朝を討とうとも考えていた常広もすっかり心服し、心から忠誠を誓ったという。この大軍を得て頼朝の事業は一気に進んだ。松下は、これはやはり頼朝の見識というものだと評価し、指導者は大事にあたっては、数の大小や力の強弱を超えた、是は是とし非は非とする見識をもたねばならないと述べている。
歴史エッセイスト白駒妃登美さんは、『人生に悩んだら日本史に聞こう』、『感動する日本史』などの著書もあるが、この人の、日本の歴史を「生き方の知恵」として学び、伝える姿勢は非常によいと私は思う。一著書に、西郷隆盛は味噌や醤油をつくるのが上手で、よく倉のなかで家人に手ほどきをしたという話が載せられている。妻イトの料理を「これはよくできました。おいしゅうございます。おいしゅうございます」とほめながら口にしたという。この話など、西郷の人間性の一端が現れていて面白い。
白駒さんは、歴史上の人物がみな愛おしいという。愛おしく思えるようになったら、さらに日本が好きになり、日本人であることの誇りが大きくなったという。
(令和8年8月1日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii‐nihon.themedia.jp/)などがある。
操縦席からの回顧録
~大いなる空へ夢を乗せて~
手記:井上 正利(監修:芦川 淳)
<第20回>改装バートル任務に臨む(即位の礼・前編)
写真=平成の即位の礼において陸上自衛隊は儀仗や礼砲の実施などで活躍。第1ヘリコプター団によるVIP空輸に任務もそのひとつであった(出典:防衛ホーム1990年12月1日号)
木更津の第1ヘリコプター団にてV107バートルへの機種転換を終えた頃、私は未だ独身で、すでに幹部に任官していたので営内にはおれず基地の外に居住しなければならなかった。以前から一人暮らしも悪くないなと思っていたから、最初の頃こそ独身生活をエンジョイしていたが、やはり食事・洗濯・掃除など家事が段々と嫌になってきた。それでもパイロットたるもの食事には気を使う必要があって、昼と夜は駐屯地食堂に有料喫食を申請して栄養が偏らないようにしていた。ただ、私の好き嫌いはもともと半端じゃなかったのでメニューの半分ぐらいは食べられないという問題に直面する。
特に嫌いなのは納豆で、あの独特な匂いには本当に参った。次はグリーンピース、セロリー、そして山芋などネバトロ系全般もダメである。極めつけは鳥系の食べ物。これはすべてシャットアウトだ! 理由は幼い頃に雄鶏に追いかけられ、羽ばたきながら蹴りをくらい、最後には指をつつかれて心に深い傷を負ったからである。
それ以来、ニワトリのトサカとか黄色い足を見ただけでブルブルッと震えが出る始末で、鳥類ならペンギンからダチョウ、ヒヨコもスズメも見ただけでも鳥肌が立つので、私ルールでは未だに御法度であり、たぶん未来永劫にダメ! バードストライクでエンジンに鳥を吸い込んだ時、着陸後にエンジンの排気口付近をチェックすると本当に焼き鳥の炭焼きのような匂いがして縮みあがったのを思い出した。
さて、私の鳥に対するトラウマはほどほどにして、以降はバートル時代の出来事を綴っていこうと思う。なかでも強く印象に残っている任務のひとつに、現上皇陛下の即位の礼にともなう支援フライトがあった。昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御され、その翌年の平成2年(1990年)11月12日に日本国の儀式として執り行われた即位の礼に第1ヘリ団が投入されたのだ。
平成2年夏の終わり頃に第1ヘリ団に対して「即位の礼に参列される各国大統領・首相・VIPの空輸を実施せよ」との命令が下り、宮内庁、外務省との調整が進むにつれ、主として成田空港と赤坂迎賓館との間のVIP空輸を担当することがハッキリしてきた。そこでバートルを活用するのだが、失敗の許されない国家行事への支援ながら我々にはノウハウがなく、まったくの手探り状態からのスタートであった。
メーカーの川崎重工も加わり、機内には豪華な絨毯、機内電話、トイレ、エアコンなどが設置され、さらにセキュリティ確保のため操縦室と客室を仕切るドアや防音装置も新設された。改装が完了した機体は、バートルもVIP仕様になるとこれほどにも変わるのかと変貌、床に敷き詰められた絨毯は3センチほどに達する分厚さだった。この絨毯のおかげで操縦室に入るのにいったん飛行靴を脱がなければならず、いちいち気を使うのが面倒だった。
さらに操縦室のドアを閉めた状態でのエンジン始動となるため、ただでさえ聞こえないエンジン着火音がさらに聞こえず、計器の反応だけが頼りであったのには弱った。ボンッ!という着火音を感じないのには酷く違和感があったし、これほど聴力の重要性をひしひしと感じたことはない。航空身体検査で聴力検査が厳しいのも何となく分かったような気もした。
もっとも、慣れてしまえばこれも感じようがある。エンジンの始動時は、燃料ポンプの作動後に燃料圧力が規定に達し、着火可能な回転数になったところでコンディションレバーをスタート位置にスライドする。するとオイル圧力計、燃料流量計、エンジン排気温度計が同時にググっと上昇し、操縦桿にも微かな振動が伝わる。これがエンジン始動のサインで、バートルに生命の息吹が吹き込まれたような錯覚を覚える瞬間だった。
任務に投入される機体の改装と同じく、支援に向けての任務研究も大変だったのを思い出す・・・。まずは密なクルーワークを実現させるために各機とも機長と副操縦士のペアが指定され、任務終了までその固定ペアで通すことになった。併せて飛行ルートの偵察と選定が進められたが、成田空港へのVFR(有視界飛行方式)での進入・離脱要領、そして万が一の天候急変時の計器飛行への移行要領や計器進入要領・・・そのほか空港に関する事務事項など確認事項が山積みであった。さらに予備の操縦士も同乗してのルート慣熟訓練。これも万が一の不測事態に備え、経路間に無数の不時着場を選定し、上空から見た特徴を頭に入れていったのである。(つづく)
井上正利(いのうえまさとし)少工校20期生。
陸自では希少な固定翼機操縦士として緊急患者空輸等で活躍(総飛行時間4967時間)、現在は航空会社の那覇営業所長と安全推進室長を兼任