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移動システム「ISRセル」も展示
ICEYE JAPAN

宇宙から前線へ情報提供

「ISR DAY」開く

写真=「SAR衛星の真髄」と題した森下防大名誉教授の講演は満席となった

   

 小型SAR(合成開口レーダー)衛星の世界的企業「ICEYE」(=アイサイ、本社・フィンランド)の日本法人「ICEYE JAPAN」(本社・東京都渋谷区)は2月17~19日、防衛省をはじめとする各省庁関係者に限定した展示会「ICEYE ISR DAY-宇宙から実現する次世代ISR運用-」を東京都新宿区のホテルグランドヒル市ヶ谷で開催した。


 安全保障・防衛をはじめとする各分野に画像情報を提供するSAR衛星コンステレーション(連携・運用システム)を用いたISR(Intelligence,Surveillance,Reconnaissance情報・監視・偵察)運用の最新状況、最新機体「Gen4」、コンテナ型システム「ISR Cell(セル)」の概要が伝えられた。

 防衛大学校の森下久名誉教授による「SAR衛星の真髄」と題した講演も行われた。会期中の3日間で約130人が訪れた。

 光学衛星と異なり、レーダーの跳ね返りを収集するため、雨や雲などの天候に左右されず、昼夜を問わず観測できるSAR衛星。

 ICEYEは2018年以降、今年2月までに64基の小型SAR衛星を打ち上げ、同衛星の世界最大級のコンステレーションを構築している。

 昨年9月から運用を開始している第4世代の最新機体「Gen4」は、能力をさらに向上させている。

 地上のどれ位の大きさを識別できるかを示す解像度は、従来の最大25センチから同16センチへ向上。高分解能で観測できる範囲は、約150キロから約400キロとなっている。

 新たに展開する移動型システム「ISR Cell」は、コンテナ車にモニター等の各種機器を積み込み、移動させることで、作戦の最前線へのダイレクトな情報提供が可能となる。

 同システムの実演も展示された。会場外に止められたワゴン車の車内にモニター等が置かれ、SAR衛星から送られる画像が正確・詳細にリアルタイムで確認された。

 宇宙領域でプレゼンスを示すICEYE。塚原靖博アイサイ・ジャパンCEOは、メディア各社の取材に応じ、「日本に立脚した事業展開を進めていきたい。安全保障、防災の高度化に寄与するだけではなく、宇宙産業の発展にも寄与することを通じて、アジア全域の地域安全保障における日本のリーダーシップ強化に貢献していきたい」と抱負を語った。

各国とも連携

 「ICEYE」は、各国国軍等との連携も進める。

 昨年12月には、ドイツ連邦軍から宇宙偵察分野における総額約17億ユーロの大型契約を受注した。同軍装備情報技術運用庁との間で締結。SAR衛星コンステレーションへの主権的アクセスを通じた宇宙偵察データを提供する。

 1月には、スウェーデン国防装備庁と国防軍向けの主権的SAR衛星システムに関する契約を締結。国防軍、北欧、北極圏、NATO北東側地域のISR体制強靭化に寄与する。

 また同月、ウクライナ国防省とも新たな契約を締結し、宇宙ベースのインテリジェンス分野における協力体制を拡大した。2022年から継続している協力関係をより強化するもので同省は、高解像度SAR衛星画像を継続的・安定的に大量に受領できる体制を確保した。

対馬駐に集約倉庫完成
任務遂行の新たな基盤

写真=完成した集約倉庫


 陸上自衛隊対馬駐屯地(司令・山田憲和1陸佐)は2月16日、新たな集約倉庫の完成に伴い、協力団体及び工事関係者の方々を来賓に迎え、安全祈願及び落成式を行った。

 令和6年に設計が完了、約2年の建設工事を経て新たな集約倉庫が完成した。同倉庫は駐屯地に所在する各部隊の補給品などを一括保管し、自衛隊が担う「国土防衛」、「災害派遣」といった任務を遂行するための重要な基盤となる。

 式最後は真新しい集約倉庫を眺めてくす玉が割れ、任務に邁進する決意を新たにした。対馬駐屯地は、今後も地域の皆様の期待に応えられるようこれまで以上に全力を尽くしていく。

読史随感<第192回>
神田 淳

広田弘毅のこと

 広田弘毅は戦前首相まで上りつめた外交官。戦後首相となった吉田茂と外務省同期だった。戦後連合国による東京裁判でA級戦犯として起訴され、東条英機ら6人の軍人とともに、唯一の文官として絞首刑に処せられた。広田の死刑判決は国民には意外に受け止められた。減刑を訴願する運動が起き、数万もの署名が集められたが判決が覆ることはなかった。広田は悲劇の宰相として日本史に名をとどめている。

 城山三郎は『落日燃ゆ』で、広田は外相、首相として軍部の暴走を抑えようとしたが、戦争拡大を止めることができず、戦後自らの責任を静かに受けとめ、一切弁明せず、従容として刑に服した人として、その高潔な生涯を描いている。広田は裁判で自己弁護らしきことを一切せず、尋問官の質問にも極めて率直に答えている。広田は尋問官に、「私の知っていることはすべてお話する。とはいえ、私の量刑のために述べていると見ないで欲しい。そんなことをしたいとは思わない。私が何かをしでかしたとするなら、私は罰せられなければならない」と語った。裁判に入るときの形式的な手続きとして、被告は起訴された内容について「無罪」を主張するが、広田は「私には責任があります」と、これをかたくなに拒んだ。裁判のルールであり、「無罪」を主張しなければ裁判にならないとの弁護人の説得にやっと応じ、広田はためらいがちに「無罪」と手短に言った。

 検察は広田を陸軍への積極的な追随者と断定した。「広田氏は軍国主義者ではないものの、政府を支配しようとする陸軍の圧力に屈しており、侵略を容認し、その成果に順応することでさらなる侵略にはずみをつけた者たちの典型である」と。検察の断定は城山三郎の描く広田弘毅像と大きく異なるが、実際はどうだったか。広田は初めて外相になったとき、列国との協調を軸とした穏健な共和外交を展開した。中国とは「善隣互助」の関係を保ち、列国との関係を持ち直す外交を進めた。しかし、広田の外交方針は陸軍の圧力を受けて次第に変化した。近衛内閣(第一次)のとき、盧溝橋事件が起きた。政府は不拡大方針だったが、陸軍と世論に引きずられて方針を転換し、内地三個師団の華北派兵を決定した。外相だった広田は当初派兵に反対したが、最後は賛成に回った。日中戦争が本格化して、日本軍が南京に迫ろうとしていたとき、蒋介石は当初広田外相が提示していた和平条件で交渉に入る用意があると伝えてきた。広田は、日本軍が勝ち進む状況を意識して、より強硬な和平案に変更した。広田は回答が遅れがちになるのを誠意なしとして蒋介石政権を見限り、近衛内閣は「爾後国民政府を対手とせず」の声明を出す。日中戦争泥沼化の責任の一端が広田の無定見にあると言われても仕方がないだろう。

 広田は「自ら計らわず」を信条として生きてきた。裁判においても自ら計ることは一切なく、人格の高潔さに打たれるが、自ら計らわないことは、成り行きをそのまま追認する無責任な弱い態度ともなる。

 私が広田弘毅の伝記を読んで最も心に残るのは、「親はいい名前を付けてくれていたのに(改名などして)ばかだったな」という広田の晩年の述懐である。広田は親の名付けた「丈太郎」を中学のとき「弘毅」と改名した。改名は広田の立身の意思だった。以後東京帝大、外務省へと進み、首相にまでなる。改名するほどの立志がなければ首相にもならなかったかもしれないが、「広田丈太郎」なら、もっと強い指導者として歴史に名を残したかもしれない。

(令和8年3月15日)


神田 淳(かんだすなお)

 元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii‐nihon.themedia.jp/)などがある。

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