自衛隊ニュース

283名が全国に旅立つ
佐世保教育隊で修業式
写真=見送られる修業生たち
佐世保教育隊(司令・宇都宮俊哉1海佐)は、8月27日、第23期一般海曹候補生課程、第387期練習員課程及び第73期練習員課程(女性)の修業式を佐世保地方総監(福田達也海将)臨席のもと、佐世保副市長の西本眞也氏ほか多数の来賓のご出席を賜り厳粛に挙行した。
佐世保教育隊司令は、「4月入隊以来、約4カ月半にわたり、同期生とともに海上自衛官たるにふさわしい態度や、部隊勤務に必要な気力、体力そして知識の基盤を身に付けてきた。そして今、その清々しくも凛々しい姿を見て本当に頼もしく思い、自信を持って部隊実習に送り出すことができると改めて実感した。先に誓った『服務の宣誓』の意味するところをしっかりと心に刻み、必要な心・技・体の鍛錬を日々怠らないよう期待する」と式辞した。
また、佐世保地方総監は、自衛官として勤務していく上での2つの指針について訓辞の中で次のように述べた。「その第1は、『自己の職責を全うする』ということである。諸官の職域や配置は、全て任務を遂行する上で必要不可欠なものである。そして、諸官一人ひとりしかできない大切な役割がある。これから海上自衛官として極めて重要な一翼を担うことに誇りを持ち、自己の職責を全うしてもらいたい。その第2は『強い使命感と厳しい覚悟を持つ』ということである。これから部隊に赴く諸官は我が国の領土、領海、領空と国民の生命・財産を守るため『平素における闘い』に勝ち抜くという『強い使命感と厳しい覚悟』を持ってもらいたい」。
総勢283名の修業生は、約4カ月半の間、海上自衛官としての基礎的な知識及び技能を修得するため様々な教育訓練を受け、心・技・体の鍛錬に努めてきた。入隊当初は、体力に自信がない学生や団体生活に馴染めない学生もいたが、同期学生が相互に励まし合い、自分自身に立ちはだかる壁を乗り越え、晴れて修業の日を迎えることができた。
修業生たちは、来賓、家族及び多くの職員に見送る中、堂々と行進し全国各地の勤務地に向けて旅立った。
日本防衛の核心としての自衛官
‐人的基盤はいかにあるべきか‐<第3回>
笹川平和財団日米・安全保障研究ユニット総括・交流グループ長 河上康博(元海将補)
提言2
自衛官の特殊性の再認識
自衛官の特殊性と言えば、「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め、もって国民の負託にこたえること」(自衛隊法第52条)が代表的であり、自衛隊員の服務の本旨である。また隊員はこの趣旨を宣誓する義務を負う(同法第53条)。これは自衛官のみならず、防衛事務次官以下の事務官、技官ほかを含む自衛隊員総員が宣誓し義務を負い、職務を遂行していることも忘れてはならない。
また、自衛隊は国の防衛は言うまでもなく、わが国周辺の海域や空域の警戒監視はもとより、地震、台風、水害、山火事、さらにはパンデミックなどを含むさまざまな緊急事態において国民の生命と財産を守ることを任務としている。対応が困難な事態であればあるほど、高い専門性や強靭な組織力を有する自衛隊への期待は大きくなる。同時に、国民や社会の防衛という公益を実現するために行動する自衛隊には、自己犠牲と無私の精神が求められる。
こうした緊急の任務に即時かつ最善の対応が行えるようにするため、上記第52条のほかに平素においても多くの制約が課されていることは、国民の皆さんにはあまり知られていない。笹川平和財団の安全保障戦略のあり方(人的基盤の強化)研究会が、自衛隊員の有事のみならず平時における処遇改善を求める理由の一端もここにある。具体的に紹介したい。
自衛隊法第56条は「隊員は…職務上の危険若しくは責任を回避し、又は上官の許可を得ないで職務を離れてはならない」と規定する。換言すれば、隊員は命を失うリスクを負いながら職務を遂行する義務を負っているのである。実際、自衛隊は創設以来70年の間に一度も戦闘を行っていないにもかかわらず、2100人を超える隊員が殉職している。
また、自衛官は事態に即応する必要があるため、いつ何時でも職務に従事することのできる態勢になければならず、原則として曹長以下の者は営舎内に、艦艇乗員は艦艇内に居住することを義務づけられる(同法第54条、第55条)。
さらに、隊員が退職を申し出たとしても自動的に認められることにはならず、自衛隊の任務遂行に著しい支障を及ぼすと認められるときは、一定期間その退職は承認されず、勤務を継続することが求められる(同法第40条)。
このような制約と同時に、自衛隊は破壊力の大きな武器を使用することを許される日本社会における唯一の集団であり、その構成員である自衛官には極めて重い責任と厳正な規律が求められる。例えば、職務の遂行に当たっては上官の命令に忠実に従わねばならない(同法第57条)し、常に品位を保つことを求められ、信用失墜行為は厳に禁じられている(同法第58条)。
さらに制約の多い生活を強いられるのは、隊員本人ばかりではなく、家族も同様である。幹部自衛官を中心にその勤務場所は全国に及び、勤務地が変わるたびに家族も引っ越しや単身赴任生活を余儀なくされている。
もちろん、組合を結成して自分たちの給与について交渉をすることなどは許されていない(同法第64条)。また政治的行為は当然制限されており(同法第61条)、厳格な職務専念義務が課されている(同法第60条)。
わが国は、自衛隊員に対し、ここに挙げたような数々の厳しい制約を課し、緊急事態が発生すればリスクを顧みずに国民の生命・財産や国家の主権を守ることを要求しているのである。このことを行政府も立法府も再認識し、国民にも改めて周知しなければならない。その上で、厳しい制約と困難な職務に見合った名誉を与え、十分な対価を補償すべきことは当然である。現状のまま十分な名誉も代償措置も与えずに隊員個々人の滅私奉公と自己犠牲を求める前近代的な組織運営を続けるのであれば、そのような組織に持続可能性はなく、早晩崩壊の危機に瀕するであろう。そうなる前に、行政府も立法府も現在実施している改革の継続とともに、更なる早急かつ抜本的な手立てを講じなければならない。
操縦席からの回顧録
~大いなる空へ夢を乗せて~
<第1回>パイロットになる!ハナ垂れ小僧の目覚め
手記:井上 正利
写真=LR‐1操縦士(平成10年代の頃の筆者。操縦席での体験から30年後の姿である)
私がパイロットになろうと決めた出来事は、夏休み先の沖縄から福岡へ戻るJALCV‐880型機の機内で起きた。昭和45年、小学校5年生のときのことである。今でいう「子供一人旅」という感じで出発地から目的地までしっかり職員がアテンドしてくれるというものだが、水平飛行中の機内で「ボク、操縦室に入ってみる?」とスチュワーデス(CA)に声をかけられたのだ。911ニューヨークテロ事件以降、ハイジャック防止のため乗客を操縦室に入れることは禁止されているが、牧歌的なその頃は全くOKだった。なぜ彼女が私に声をかけてくれたのかは解らない。恐らく一人旅なのを心配してくれたのだろう。しかし、そのひと声が私の人生を左右することになった。
当時の私は、実は航空機などまったくもって興味も縁も無く、TVアニメ『巨人の星』)の主人公に影響されたのか、鉛のボールを余所の家の塀にブチ投げて特訓、豪速球を目指して肩を鍛えるようなまったくの単細胞なガキ。年中、外で遊びまくり、冬は鼻水で服の袖がテカテカになるような純な子供であった。しかしそんなガキでも、飛行機の操縦席を覗けるというチャンスは、好奇心をかきたてるのに充分な魅力があったのだろう。『鉄の塊をコントロールする中枢ってどんなところなんだろう?』とワクワクとした気持ちで胸がいっぱいになった。
そして子供ながらに窮屈に感じる操縦室に足を踏み入れると、まずは壁いっぱいの計器類に目を見開き、次に眼下に拡がる操縦席からの風景に開いたままの目が釘付けになった。このとき天空のパノラマを目にして感動に打ち震えたことは、いまだに鮮烈な思い出として残っていて忘れられない。そこは、ちょうど奄美大島と鹿児島の中間の上空だったろうか…晴天下の飛行であったから眼下には九州の全域と四国の足摺岬から山口辺りまでの広大な眺めがドーンと拡がっていた。
次の瞬間、脳裏に電撃が走り、「あ~、これだ!」と体じゅうに武者震いのような興奮を感じたのだ。あまりに小さく映る地上での営みのすべてがちっぽけなものに思え、この雄大な汚れのない鮮やかな大空の中で仕事がしたいと本能的に感じたのである。空には思いもよらない形で自分の全てを引き付ける「何か」があった。それが何かと言われても、今もって言葉にできないのが残念だ。強いて言えばこれが運命なのかもしれない。
この出来ごとを体験して以来、野球選手になる夢(私の世代では子供達の憧れの的だった)はキッパリと諦めた。自分のすべてを賭けて、将来は必ずパイロットになろうと決心し、そこから鼻垂れのいたずら好きな悪ガキの夢を追いかける日々が始まった。毎週日曜日には福岡空港に通うようになり、空港ビルの展望エリアから飛行機とボーディングブリッジの接続作業を食い入るように見たり、屋上からは滑走路やエプロン全体をつぶさに観察したり、あるいは航空機の離着陸をずっと眺めていた。そして回数を重ねれば重ねるほどに夢はグングン膨らみ、空港通いがもっと楽しくなったと記憶している。
ときには滑走路の端で、大の字にあお向けになり着陸する航空機を真下から見ていたこともあった。今では空港近隣の保安警備は厳しいが、昭和のその当時は高い柵など無く、たまに見回りに来る警備のおっちゃんに「坊主、滑走路の中には入るなヨ!」と軽く注意される程度だった。歩いてランウェイ16のエンドにギリギリ近付き、離陸直前の飛行機のパイロットに手を振り続けていたこともあった。ときどき自分の姿に気が付いたパイロットが手を振り返してくれたこともあって、子供心にはそれが飛び上がるほど嬉しかった。今思えば、ハイジャックやテロの恐れも少ない古き良き時代だったと思う。
それからだいぶ時が過ぎて、自衛隊の職業パイロットになってからのフライトで名古屋・熊本空港などに立ち寄ると、大勢の航空マニアが写真を撮影する光景に出会った。幼少時代に飛行機に向かって手を振っていたことを思い出し、私も操縦席から手を振り返すとマニアの人達が喜んでいるのが見えた。驚いたことにマニアの方の中には、私がどこから飛来し、どこの部隊の所属だったのかを調べ、後に私宛に立派な額入りの写真を送って来てくれた人もいた。その写真の中で私は操縦席の窓から笑顔で手を振っていて、私は丁寧に感謝を込めた手紙を返したがその方とは今でもお付き合いが続いている…。
話は元に戻り、JALCV‐880型機の操縦席に入り、雄大な景観に感じ入り、武者震いを感じたその瞬間…私の原点はそこにある。だからパイロットになってからも、奄美大島と鹿児島の間の上空を飛ぶと必ずいつも当時の衝撃を思い出す。小学校、中学校、高校の卒業文集では、幼い頃からの夢を追って将来は必ずパイロットになると誓い、その通りに他の人生には目もくれなかったから本当の飛行機バカだと今でも思っている。こういう人間が居てもいいだろうと思うのは私だけだろうか?
自衛隊の操縦士になってからは、体験搭乗で子供には操縦席の景色を見て楽しんでもらっていた。人間は夢を持つ生き物だと思っている。人生とは夢を追い求めて歩むもので夢がなければ目標も見えない。ただ漠然と勉強して、いい学校・大学に進学して、いい会社へ就職したいという気持ちは、その安定度の高さこそ理解できるが、私はそうなりたいとは思わなかった。だから私は子供達に夢を与えたかった。人生は親や先生、友達や他人が決めるものではない。自分で見つけて目標に向かって努力していくことであると思っている。夢を諦めず、情熱と努力があれば、どんな困難にも立ち向かえる。人生は一回きりなのだから、大きな挑戦はそれに見合う価値があるはずだ。(つづく・監修 芦川淳)
井上正利(いのうえまさとし)
昭和33年生まれ。福岡県出身。陸上自衛隊少年工科学校20期生。昭和59年の陸曹航空操縦課程入校からパイロット人生をスタートさせ、平成4年には念願であった固定翼機操縦士への転換を果たす。北部方面航空隊、第1ヘリコプター団、第101飛行隊(現・第15ヘリ隊)などに勤務し、緊急患者空輸でも活躍した。平成24年に退官するまでの総飛行時間は4967時間、現在は民間航空会社の那覇営業所長と安全推進室長を兼任