自衛隊ニュース

音楽隊に敬礼っ‼<第16回>
前陸上自衛隊中央音楽隊長 樋口 孝博
実録、昭和の東京オリンピック
写真=写真=1964年のファンファーレ
長い歴史を誇る音楽隊の歴史のなかでも、1964年の東京オリンピックにおける演奏は、ひときわ脚光を浴びるものとなりました。特に開会式でのファンファーレやマーチの演奏は、テレビやラジオ放送によって国内はもちろん、世界中に届けられました。
この東京オリンピックでの演奏に向けて、中央音楽隊の初代須摩隊長は、4年前のローマ大会に東京大会組織委員会の調査員としてイタリアに派遣され、各軍楽隊の演奏を参考に音楽隊の運用、楽譜、音響など多くのアイデアを取り入れ、大会成功の原動力になりました。この業績は、今でいう〝開・閉会式総合演出家〟と同等のものであり、のちに開催される「札幌オリンピック」や「長野オリンピック」における開・閉会式の礎にもなりました。なかでも、いまだにメディアで流されるのがファンファーレの演奏です。この曲は、公募によって選ばれた今井光也氏の作品ですが、曲の後半が須摩隊長によって補作されたことは世に知られていません。
参加国の国歌も須摩隊長の手によってアレンジされましたが、「入村式や表彰式で使用する国歌は、国ごとに30秒」という、国歌の本質よりも時間が優先されたため、テンポを速めたり途中で切るなど大変な苦労があったそうです。
1963年、本番を1年後に控えた音楽隊はメディア各社から引く手あまたでした。オリンピック関連映画の撮影、「ゆく年くる年」などのテレビ出演、「オリンピックの集い」といったステージ。加えて「ブレザー発表会」や「ファンファーレ隊写真撮影会」など、数十に及ぶイベントに参加したことは、いかに音楽隊への関心が高かったかということを示しています。しかし裏を返せばこの時代、音楽業界や芸能界は今ほど熟成しておらず、組織だった演奏は公務員バンドに頼らざるをえない時代でもありました。
そして大会を間近に控えた陸上自衛隊では、オリンピック支援集団が編成され、オリンピック要員として募集された新隊員も配属されました。万全の体制で、全国から214名もの音楽隊員が東京の芝浦分屯地に集結しました。
「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」とアナウンスされた開会式は、10月10日に行われました。満員の国立競技場(旧)では、南・北ゲート2つに分かれた音楽隊の入場演奏が開始されたのですが、このときのテレビ中継は聖火リレーを映していたため、その様子は一般に知られていません。100名規模の自衛隊、警察・消防の各音楽隊が、《大空》や《君が代行進曲》など日本人作曲のマーチを奏でながら競技場のトラックを行進し、500名の合同バンドが特設席に配置されました。
各国のプラカードを持った防衛大学校の学生先導による選手団が行進するなか、大音楽隊は古関裕而作曲の《オリンピック・マーチ》や《海を超える握手》などのマーチを演奏し続けました。現在のスポーツイベントにおける演奏は、ほとんどがデジタル録音されたものですが、アナログ全盛期のこの時代、演奏は生演奏の迫力あるものでした。そして、天皇陛下の開会宣言に続き、聖火台の下に展開した陸自ファンファーレ隊の30名が、歴史の名場面となる、あのファンファーレを高らかに奏でたのです。そして選手宣誓のあと、ブルーインパルスが青空に五輪のマークを描くシーンも有名ですが、この場面では350名に及ぶ大合唱団の《君が代》斉唱が音楽隊の伴奏で行われていました。
期間中は昼夜を問わず、すべての競技の表彰式でも音楽隊は分散して金メダル受賞国の国歌を演奏しました。また、閉会式でも行進曲や国歌、《蛍の光》などを演奏して会場を一つに包み込んだのです。
この〝世紀のイベント〟で、中央音楽隊は楽器や服装などが整備され、付随する幾多のイベントやレコーディングなどでも注目を集めることになりました。そして演奏者も、80名を超える日本を代表する吹奏楽団へと花開いたのです。