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読史随感<第205回>
神田 淳

地震災害に備える

 今年7月、熊本県でまた最大震度7の大地震が発生した。2016年発生した最大震度7、M(マグニチュード)7・3の熊本地震以来10年しか経っていない。一昨年(2024)には能登半島で最大震度7、M7・6の大地震が発生している。2011年3月11日発生した、M9・0という世界最大級の東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)以来、日本列島は地震活動が活発化しているように思える。

 日本列島は世界的に有数の地震・津波発生地帯である。それは日本列島の地理的条件から来る。地球表面は十数枚のプレートに覆われているが、日本列島は、太平洋プレート、北米プレート、ユーラシアプレート、フィリッピン海プレートの4つのプレートがぶつかるところである。日本列島の東半分は北米プレート上に載っており、西半分はユーラシアプレート上に載っている。東よりゆっくり西に移動してくる太平洋プレートが北米プレートにぶつかり、その下にゆっくり沈み込んでいる(沈み込む場所が日本海溝)。南からゆっくり北上するフィリピン海プレートがユーラシアプレートと北米プレートにぶつかり、その下に沈み込む(沈み込む場所が南海トラフ及び相模トラフ)。プレートのぶつかるところにひずみがたまり、ひずみの蓄積に耐え切れなくなったプレートの一定領域が断層滑りを起こし、ひずみを解放する。この断層滑りが地震を発生させ、断層滑りが海底で起きるとき津波が発生する。

 日本列島が定期的に巨大な地震・津波に襲われるのは自然の宿命である。近年では1923年、首都圏が史上最悪の地震災害(関東大震災)に見舞われた。最大震度7、M(マグニチュード)7・9で、6万戸以上の家屋が倒壊。45万戸が火災で焼失し、死者10万5千人に及んだ。

 今後首都圏にどのような大地震が来ると予見されているだろうか。国の中央防災会議は、首都圏を中心としてM7クラスの直下型地震が起きると考えており、それが起きる確率は今後30年で70%と予測している。首都圏は北米プレートの上にあるが、その下にはフィリピン海プレートがもぐりこみ、プレートの境界と内部にプレートの複雑な動きで生まれるひずみによる直下型地震が起きる。M7クラスの首都圏直下型地震はいつ起きてもおかしくないと考えられている。

 国は三つのタイプの首都直下型地震を予見している。一つは、東京湾南部地震と呼ばれるもので、地盤の弱い東京23区の東部を中心に震度7の激しい揺れに見舞われる。家屋の全壊と焼失が最大61万戸、建物の倒壊や火災による死者が最大2万3000人に及ぶと予測されている。二つ目は関東地方内陸部にある活断層が動くもの。府中市から飯能市にかけて存在する立川断層帯が動いた場合、M7・4の地震が起き、6300人の死者が出ると予想される。三つ目のタイプが、1923年関東大震災をもたらした相模トラフを震源とするプレート境界型地震。

 日本に住む限り、大地震・津波から逃れることはできない。地震・津波災害から命を守り、地震・津波災害をできるだけ少なくする努力をするしかない。大地震は近いうちに必ず来るとの想定のもとに、国と都は地震防災計画を不断に見直し、実際によく機能する防災計画にしておく必要がある。個人としても、自分と家族の命は自分で守るとの思いで、地震防災をよく学習し、火災対策(消火器の備え)、家具の固定、水・食料等の備蓄、電源の確保など、個人でできる地震防災対策を行うとともに、地域の防災訓練に参加する。

(令和8年10月1日)

  

神田 淳(かんだすなお)

 元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii‐nihon.themedia.jp/)などがある。

操縦席からの回顧録
~大いなる空へ夢を乗せて~
手記:井上 正利(監修:芦川 淳)

<第24回>海自パイロット生誕の地 小月基地

イラスト=海上自衛隊での教育中に事件発生!急性睾丸捻転の激痛に苦しむ


 決まってしまえば、あとは早かった。機種転換の話はとんとん拍子に進み、機種転換課程への入校は平成4年3月末となった。それまで約3か月間は第2ヘリコプター隊本部での勤務となり、任務調整の部署でデスクワークと入校準備とこなすこととなった。

 平成4年3月末、私は木更津から下関へと異動した。妊娠している妻とフェリーで東京港から小倉港まで船旅を楽しみながら移動した。フェリーで移動したのは車で木更津から下関まで運転するのが嫌だったことと、たまにはのんびりと船旅でもいいかなと思ったのが理由である。また車での移動中に事故でも起こしたらせっかくのチャンスもフイになってしまうのも心配した。今思い返すと、ずいぶんと慎重だったように思う。しかしその海路も楽しかったのは束の間で、東京港を出港して外海へ出るといきなり船は波で大揺れとなり、結局、小倉港に到着する間際まで船酔いでゲロゲロ吐いていた。この時はちょっと奮発して特別船室を予約していたのだが、波に揺れる環境は2等船室でも一緒でファーストクラス、エコノミークラスと同じで航空機も変わらないと思った。この往復時以来、いまだに長時間のフェリーには乗っていない。

 小倉港からの実家のある福岡市内までは愛車トレノで自走、身重の妻を私の実家に置くと踵を返して山口県下関にある海上自衛隊小月航空基地へと向かった。小月にある海上自衛隊教育航空群での約5か月間の教育を受けるためである。ここでKM2練習機を用い、約5か月間、固定翼機操縦の基礎を学ぶ。

 海上自衛隊の防衛大・一般大出身幹部候補生に対するパイロット養成コースに混じって生活を共にした。トータルで約35名の課程学生のなか、陸自からの学生は3名で、なかには海上保安大学出身の操縦士要員も5人いた。ちなみに陸自組の同期2人は、一般入隊からの叩き上げでギャンブル好きなテキトー男こと成田3尉、それと防衛大出身の身も心もスマートな楠見3尉だ。この2人とはなぜか物凄く波長が合い、いつも3人で行動した。

 小月では一緒に飲みに行ったり、温泉に行ったり、宇都宮の頃は週末には木更津まで遠征して我が家を寝城に各人の趣味を満喫したほどだ。固定翼課程の教育は全体で約1年弱におよぶ厳しい生活だったが、これを乗り越えることができたのもこの2人のお陰でだと思っている。なお成田君とはLR2転換課程でも一緒だったから、よほどの縁だったのだろう。

 教育は座学による飛行理論から始まり、内容は流体力学、エネルギー運動など、以前操縦学生の頃にやったモノばかりだった。陸自組の学生はすでにパイロット徽章を付けていたが、海自と海保の学生は今からがスタートであり、我々はあくまでも機種転換教育のコースとして入って来ているという大きな違いがあった。

 しかし、たとえパイロット徽章は取得していても、あくまでも回転翼操縦士だ。不適格であれば容赦なく淘汰されるので、基礎科目である座学も一から学び直す気持ちで取り組んだ。特に固定翼機の操縦は計器飛行が主流となる。これが出来ないと必ず淘汰されて卒業は難しいので、余裕のあるこの時期に計器飛行の課目を一からやり直した。

 最初の約2か月間は座学オンリーで気持ちに余裕はあったが、驚いたのは海上自衛隊の体育カリキュラムだ。陸自操縦学生の体育は飛行場一周(約5㎞)を走ってバレーボール等のチームワークプレーのスポーツを主体にやっていた。しかし海自のそれは飛行場一周(約8㎞)走った後、プールで1000m泳ぐのだ。30代半ばの私にとって、この海自の体育は苦痛の課目であった。

 座学も後半を過ぎると、飛行訓練で搭乗するKM2練習機のシミュレーター訓練も始まった。ところがシミュレーター訓練が始まって直ぐの頃、体調に異変が起きたのだ! 恥ずかしながら男の急所に激痛が走るようになったのである。

 症状としては野球でキャッチャーが地面にバウンドしたタマが当たったような痛みで。呼吸も出来ないくらいの辛さが周期的にやってくる。これは「急性睾丸捻転」という30代位の男性が稀にかかる疾病で、睾丸がグルグルと動いて固定されず、酷くなると血流が止まって睾丸が壊死するという恐ろしいものだ。

 すぐに手術が必要となり、実家に近い福岡の一般の専門病院で手術を受けて退院まで約2週間を過ごすハメになった。退院後の身体検査では海自の医官(女性含む)が大勢集まり、しこタマ質問攻めされたが、それだけ経験できない症状の類だったのだろう。しかし、一番驚いているのは本人である。(つづく)


 井上正利(いのうえまさとし)少工校20期生。

 陸自では希少な固定翼機操縦士として緊急患者空輸等で活躍(総飛行時間4967時間)、現在は航空会社の那覇営業所長と安全推進室長を兼任

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