自衛隊ニュース

ゲッキーのイラスト

防衛省・自衛隊への理解を深める

第7師団71周年

東千歳駐屯地72周年

写真=観閲行進を見守る来場者

 第7師団(師団長・武田敏裕陸将)は、5月24日に第7師団創隊71周年・東千歳駐屯地創立72周年記念行事を執り行うとともに、一般開放を行った。当日は、道内外から1万2000名を超えるたくさんの方々にご来場いただき、記念式典、観閲行進、装備品の動的展示等を楽しんでいただいた。

 式典に先立ち行った感謝状贈呈式では、師団・駐屯地に多大なる貢献をされた方達に対し、深い感謝の意を込め、師団長・駐屯地司令から感謝状と記念品を贈呈した。

 記念式典の式辞において師団長は、地域の方々やご家族に対する謝辞と「今戦って勝てる師団への進化と新生機甲師団の創造を両輪として厳しい訓練に邁進すること」「それぞれの持ち場で足元を照らし、努力を惜しまず取り組んでいくこと」等を述べた。

 また、国内最大規模の観閲行進では、人員約1100名、車両約300両、航空機4機の戦車・装軌車部隊を主体とした観閲部隊が、音楽隊の演奏に合わせて、砂塵を巻き上げ力強く疾走する威風堂々とした車両行進を披露した。

 観閲行進後の装備品の動的展示では、戦車部隊の攻撃を「威力偵察」「対空戦闘」「攻撃準備射撃」「敵陣地への突入」の4コ場面に区分して、戦車・装甲戦闘車、自走高射機関砲など師団特有の6コ装備品の行動を空包射撃や前進などを交えて展示した。

 一般開放に伴い実施したふれあい行事では、第7情報隊の無人偵察機スキャンイーグルⅡを初めて展示した他、毎年大人気の戦車体験搭乗や、戦車・装軌車・野外入浴セット等の装備品展示を行って、たくさんの方々に装備品に触れて又は体験していただき、師団に対する認識・理解を深めていただいた。

 第7師団は、国民そして地域の皆様から更なる信頼を得るため、これからも地域と連携するとともに、引き続き日々の任務に邁進していく。


第12旅団25周年

相馬原駐屯地67周年

 第12旅団(旅団長・栁裕樹陸将補)は4月11日、相馬原駐屯地及び相馬原飛行場において、第12旅団創立25周年及び相馬原駐屯地創設67周年記念行事を挙行した。

 記念行事には群馬県知事や国会議員をはじめ地元首長や警備隊区である群馬・栃木・新潟・長野の4県の自衛隊協力団体などの来賓のほか、一般来場者を合わせて約1万1000人が来場した。

 執行者である旅団長は式辞で安全保障環境が複雑化した国際情勢と、自然災害の激甚化による災害派遣機会の増加を挙げて、厳しい訓練へ全力を尽くして取り組み、対処力を向上させ抑止力としての存在感を高めることを第12旅団の任務として取り組んでいくと述べるとともに、今後も地域に愛され信頼される部隊であり続けることを誓うとして締めくくった。

 記念式典は地域、家族、隊員との信頼をテーマとし、音楽隊と高崎経済大学のアカペラサークルによる国歌斉唱で幕を開け、荘厳な歌声が来場者を魅了した。観閲行進では水路や陸路など進入経路に応じた装備のレンジャー部隊が来場者の注目を集め、音楽隊の演奏では各県のご当地キャラや松本アルプス太鼓と共演したほか、技術力で魅せたオートバイドリル、方面特科連隊のFH70の参加による大迫力の戦闘訓練展示を前に大きな歓声があがった。

 装備品展示会場では重レッカー車による車両回収や、巨大タイヤの交換作業、浄水システムの稼働などを実際に行う動的展示を初めて実施し、日常から縁遠い防衛装備品の性能や隊員の手慣れた操作に関心が寄せられた。

 募集に焦点を当てた企画では大学生や高校生などの募集対象者に向け駐屯地見学ツアーを実施し、参加者からは「より身近に感じられた」と好評を得た。

 広報ブースでは県内学生の美術作品が来場者を出迎え、旅団マスコットキャラクターの「わっしー」が群馬地方協力本部のキャラクター「だるまん」とともに大学生アカペラサークルのライブコーナーに登場すると、周囲の来場者は大きな拍手で迎え、力強い生歌のライブを大いに盛り上げた。


信太山駐屯地69周年

 信太山駐屯地(司令・伊藤亮基1陸佐)は、4月26日、信太山駐屯地創立69周年記念行事を挙行した。当日は、担任隊区から多数の国会議員、各自治体首長・議員、協力諸団体の代表等の他、約1万人もの地域住民の方々にご来場いただいた。

 観閲式において観閲官(司令・伊藤1佐)は、「昭和32年に陸上自衛隊の部隊が配置されて以来、当駐屯地は『地域の御楯』として、69年もの長きにわたりこの地で活動を継続することができましたのは、地域の皆様の御理解とご協力のたまものであり、改めて深く感謝申し上げるとともに、今後とも信太山駐屯地に対する格別のご理解・ご協力を賜りますようお願い申し上げます」と式辞を述べ、地域と共にある「明るく信頼される駐屯地」を目指して引き続き訓練に励むとともに地域との連携をより一層強化する決意を示した。

 式典後の会場では、信太菊水太鼓及び第3音楽隊による演奏が行われ、厳粛な雰囲気から一転、会場は大きな歓声と拍手に包まれた。

 続く戦闘訓練展示では、第5中隊長(高橋耕助3陸佐)の指揮の下、増強普通科中隊による陣地攻撃を想定した大迫力の模擬戦闘訓練を実施し、臨場感あふれる展示に、来場者から大きな歓声が上がった。

 その後も駐屯地内の各所において、装備品展示、高機動車体験搭乗、こども広場等、来場者に自衛隊に対する理解を深めてもらうため、隊員のアイデア溢れる各種催しには多くの来場者が訪れ、駐屯地内は終日賑わいを見せた。

 直前まで雨が予想されていたが、当日は好天に恵まれ、地域と自衛隊とのつながりをより一層深める機会となった。


第1特科団

北千歳駐屯地74周年

 北千歳駐屯地(司令・井上亙陸将補)は、第1特科団創隊・北千歳駐屯地開庁74周年記念行事を行った。

 今年の記念式典は、駐屯地体育館において、ご来賓の方々をお迎えし執り行った。ご来賓の方々からは、心温まるご祝辞を賜り、大変意義深く、心に残る素晴らしい記念式典となった。

 記念式典に先立ち、防衛基盤の育成や隊員の士気高揚などの功績で、第1特科団及び北千歳駐屯地に貢献された10名の方々に駐屯地司令から感謝状を贈呈するとともに、記念式典後には、祝賀会食を開催し、盛会のうちに幕を閉じた。

ノーサイド
北原 巖男

二面性

 全国の自衛隊員・ご家族の皆さんそして本紙読者の皆さんには、それぞれご自身のふるさとを離れてから幾年月、既に、ふるさとに居たときよりも長い期間が経過している方も多いのではないでしょうか。僕もそんな一人です。しかも僕については、自分のふるさとのことをよく分かっていないのが実情です。皆さんは、いかがでしょうか。こうした中、遅ればせながら、人生の先輩のアドバイス等をきっかけに、ふるさとについてもっと知ろうという気持ちになりました。

 僕のふるさとは信州高遠、といっても高遠城址からは10キロ近く離れた山の中(高遠町三義(みよし)の荊口(ばらぐち))。

 そんなところでも僕が誇りにしている先祖代々檀家の弘妙寺(ぐみょうじ)という小さなお寺があります。

 戦国時代、武田と織田の最後の決戦の時のことです。織田信長の嫡男織田信忠率いる5万とも称される大軍勢が、高遠城主仁科五郎信盛(武田勝頼の弟)を討つため伊那路を進軍して来たのでした。同時に高遠城の搦手を攻めるため別動隊で鬼武蔵と呼ばれた荒武者の森長可(もりながよし)の部隊が、諏訪から杖突峠を越え尾根伝いに山道を進み三義の荊口に下りました。数百の軍勢と言われています。ここで森長可は荊口の弘妙寺に炊き出しを命じたのです。しかし弘妙寺の住職(日藤聖人)は敢然として炊き出しを拒否しました。領主に対する恩義があり、征討軍に協力するわけにはいかないとの理由です。数年前に復刻された「三義村誌」には、このような記述があります。「日藤曰く我主君を撃つもの之れ敵なり何ぞ糧を与うるを得んやと応ぜず強いて乞う倍々応ぜず長可怒り火を放つべしと 日藤自若として動ぜず長可遂に火を放ちて去る此時堂宇皆壊滅す日藤奮て直に之を再建す」

 烈火のごとく怒った長可によって、お寺は焼け落ち寺宝もことごとく灰になってしまいました。織田軍は隣村のお寺に炊き出しを命じ、隣村のお寺の住持は、弘妙寺の焼けるのを見て恐れをなし、早速その求めに応じました。長可は、戦利品の一部を褒美として寺へ与えました。寺には今なお太鼓と鰐口とが残っています。(北村勝雄著「高遠城と藩学」より)

 隣村のお寺は平安時代の宝物などもあり今は観光名所になっています。でも、僕はうちの村の和尚の気概に感動していました。恩義・忠誠心、そんな村の子孫なのだと。

 そんな僕に衝撃の事実があらわれたのでした。高遠藩の歴史の本をひも解いていたとき、幕末の年貢を示す「安政4年高遠全領農村貢租上納量」と題する一覧表の欄で目が点になってしまいました。隣の村は年貢を納める力が中村(ちゅうそん)と表記されています。僕の村は、なんと下下村(げげそん)。つまり生産力が少ないのです。隣村は185石年貢を納める必要があるのにうちの村はなんと25石。森長可の軍勢が攻めて来た戦国時代は、幕末よりも生産性はさらに落ちていたと考えられます。つまり、炊き出しを命じられても物理的に応じることが出来なかったのではないか、と、疑念が湧いて来ました。

 「米を出せ」「米は無い」「麦でも粟でもよい」「麦も粟もない」

 そんな光景が浮かんでなりませんでした。住職は困窮極まる村人のため村人の負担をおそれたのかもしれません。

 あらゆる物事には、二面性があるのは事実です。ひとつの面だけでなく、別の面も常に考慮することは大事ではないでしょうか。多面性、多様性、不確実性の時代の今それが重要になっています。

 自衛隊にあっても、厳しい上司の厳しさは優しさの裏返しかもしれません。

 最先任上級曹長や先任伍長、准曹士先任といった方々はもちろん、なべて曹と呼ばれる皆さんは、その立ち振る舞い、視線の向きに至るまで鍛え上げられた佇まいがあります。とかくこの頃はタイパやコスパと簡単に結果を求める傾向で判断されがちです。しかし本当に必要なのは長い時間をかけて作り上げられた「身体知」といったものではないでしょうか。危険作業を行い、身命を賭して任務に励む中で培われたものと言ってもいいかもしれません。厳しくなければ優しくないと言えるのではないでしょうか。厳しさと優しさは相反するものではないのです。しかし、それが判るのには時間を要するのでしょう。

 以前、海上自衛隊の方と話したことがあります。「土木工学を学んだ隊員が船に乗っても海上では役に立たないのでは?」そう問うと、彼はきっぱりと答えました。「極限の状態ではむしろ多様性を持つ人材が求められるのです」

 常に危険な状況の下にある自衛官の皆さんは、多様性の重要性を直感的に感じるのでしょう。

 生産性の高くない土地で営々と農業を営み、蚕を育て、炭を焼き、国の産業に貢献した先人、恩義のため鬼武蔵に抵抗したと伝えられている和尚、尊敬の念は変わりません。僕はそういうふるさとに誇りを持っています。

 ところで弘妙寺はその後再建され、山田東雲斎の描く迫力ある龍の天井画を含む「龍の寺」として人々に愛されています。


北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事

紙面一覧
紙面一覧
close