自衛隊ニュース
ノーサイド
北原巖男
映画「国宝」を観て
北海道を含む日本列島は、正に超ド級のヒートアイランド。
病気で熱発したSOS時の体温以上の猛烈な暑さ。連日の襲来です。
隊員の皆さん・ご家族の皆さん、そして本紙読者の皆さんにとりましても、このうだるような暑さによる命の危険は、決して人ごとではありません。日常生活・訓練・任務遂行等に際しては、くれぐれも熱中症対策に万全を尽くして頂きたいと思います。
ところで、こうした酷暑を吹き飛ばすような邦画が、今、とても評判になっています。
歌舞伎役者ではない吉沢 亮さん(立花喜久雄役)と横浜流星さん(大垣俊介役)が、共に歌舞伎役者を見事に演じている映画「国宝」(李 相日監督 原作は吉田修一氏)。若いお二人は、この映画に懸ける旨、語っています。
著名な歌舞伎役者の皆さんからも、お二人の演技を絶賛するコメント等が発表されています。
筆者の近所の奥さんも、映画を見た息子さんから電話があり、「お母さんも、是非」と勧められ、観賞されたとのこと。曰く、「本当に久しぶりの映画でした。とても良かったです。涙が出ました。踊りが凄く素敵で綺麗。客席は、出来るだけ後ろの方が良いと思いますよ。」
筆者も、時世に遅れてはなるまいと、比較的観客が少ないのではと考えたウイークデーの真っ昼間を狙って、都内の映画館に走りました。しかし「国宝」は、約3時間半後の次の回も既に満席状態。僅かに最前列の4席が空いているだけでした。首が痛くなるだろなぁ、スクリーン全体が良く見えないだろうなぁと思いながらも、時機を逸するわけにはいきません。
美しい映像。観客は、女性陣が圧倒的に多かったです。
筆者も、歌舞伎は好きな一人ですが、入場券が高額のため、東京都の広報紙に「都民半額観劇会」の募集があるときを待って応募し、運よく当選した場合にのみ、勇んで観に行っている程度です。そんな筆者でも、歌舞伎役者でない二人は、見事に歌舞伎役者を演じきっていると思いました。ともに女形として、女性らしい優しさに満ちた妖艶な踊りの数々には魅了されました。
片ややくざの長男、片や歌舞伎名門の御曹司。描かれていたのは、その二人が共に歌舞伎に人生を捧げる「芸」と「血筋」・葛藤と決断・人生の暗と陽・様々な人間模様・・・。
最期に二人が演じた「曽根崎心中」(徳兵衛:立花喜久雄:吉沢 亮さん・お初:大垣俊介:横浜流星さん)は、圧巻。この六人の心と心が完全に一体となり、その極限状態に引き込まれて行った筆者も、緊張で息が止まっていたのではないかと思います。
今回の「国宝」は、改めて、永年にわたって、祖父から父へ、父から息子へ、そして孫へ、更にはその次へと、本当に幼い子供のころから次代を担う歌舞伎役者を厳しく脈々と育て、我が国文化の宝とも言うべき歌舞伎の発展に尽くして来ている「血筋」の甚大な貢献と「芸」について考える機会となりました。
ここでふと浮かんできたのが、自衛隊のことでした。筆者が防衛庁(当時)・自衛隊に入ったのは、既に半世紀も前のことです。今のように、国民の約9割が防衛省・自衛隊に対して好印象を抱き、理解や支持をしてくれている状況では全くありませんでした。
しかし、その当時、或いはそれ以前から防衛庁・自衛隊に入っていた隊員の皆さんの息子や娘たちが、父と共に、或いは父からバトンタッチを受けるかのようにして入隊し、更にはその子供たちも自衛隊員となって、自衛隊の活動を担っている皆さんは少なくありません。防衛省自衛隊を支えて来ているいわゆる「自衛官一家」の、いわば「血筋」とも申し上げるべき皆さんたちです。自衛隊員である祖父母或いは父母、兄弟姉妹などが緊急招集等で飛び出して行き、人々の安全や命を守るために全力で尽くす姿を身近で見て、自分なりに感じ、考え、そして自分も後に続いている皆さんです。
前述のように、今や国民の皆さんの自衛隊に対する好感度は著しく高くなりましたが、他方、留まるところを知らない、むしろ加速化している少子化により、隊員の確保は募集予定数の半分に留まっています。そうした中での彼らの存在の有難さ、大切さを、改めて私たちは認識しなければならないと思いました。
このような「自衛官一家」の皆さんの更なる継続・慫慂と共に、少子化のため日本社会全体が深刻な人手不足の中で、自分が初めての自衛隊員になることを志す、そんな人達を増やして行くことが焦眉の急であることは、今さら述べるまでもありません。
更に、自衛隊をサポートするけれども、自分の子供が自衛隊に入ることについてはチョットとの気持ちを抱いている親御さんも多いと思います。そうした親御さんのお気持ちも分かるような気がします。
どこまでも誠実に真摯に対面しながら、自衛隊員のやりがいを始め、処遇改善に努めていることや魅力等について、とことん説明し、質問に答え、理解を求めて行く粘り強い努力に勝るものはありません。
もう一つ「国宝」を観て思ったことは、自衛隊幹部の皆さんの、防衛大学校出身者と一般大学等出身者との関係です。幹部の人数は、圧倒的に防衛大学校卒業生が多いのは当然ですが、防衛省・自衛隊は、防衛大学校と一般大学出身者、部内登用等の幹部からなり、相互が信頼で結ばれた多様性豊かな一つの不可分の融合体です。つまり、出身如何によって防衛を担う「血筋」とか、そうではない等の捉え方は適切ではないと思いました。そもそもそんな捉え方をする者はいないと失笑されるかもしれませんが、そんなことを思いながら映画館を出ました。
最澄の「山家学生式」に、〝一隅を照らす。それが国の宝なり。〟といった記述があったことも思いだした映画「国宝」でした。
依然眩しい太陽の下、にぎやかな人々の往来に平和な日常を感じました。
北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事
読史随感<第178回>
神田淳
鈴木貫太郎首相のこと
80年前(1945年)の8月15日、太平洋戦争が終わった。毎年8月15日前後には新聞、テレビで、原爆投下、沖縄戦の悲劇、玉音放送など、終戦時の歴史が語られるが、私は終戦時の首相鈴木貫太郎について語ろうと思う。中曽根康弘が「政治家は、その成し得た結果を歴史という法廷で裁かれる」と言っているが、太平洋戦争を終結させた鈴木貫太郎首相は、まさに歴史の法廷で評価される政治家だと思う。
1945年、日本の敗戦は決定的となっていた。B29爆撃機の日本本土空襲が本格化し、3月の東京大空襲では、死者10万人、罹災者100万人を超えた。3月沖縄攻撃作戦が開始され、激烈な戦闘ののち、6月に沖縄は占領された。沖縄県民15万人が犠牲になった。8月6日広島に原爆投下、8日にはソ連が日本に宣戦布告し、満州、朝鮮に進撃。9日長崎に原爆投下された。
8月9日午前、鈴木貫太郎首相は最高戦争指導会議を開き、冒頭、「広島の原爆といい、ソ連の参戦といい、これ以上の戦争継続は不可能と思う。ポツダム宣言を受諾し、戦争を終結させる他ない」と発言。会議は紛糾し、1条件だけ付して降伏する意見(外務大臣など3名)と、4条件を付して降伏する意見(陸軍大臣など3名)とに分かれ、結論が出なかった。鈴木首相は同日深夜昭和天皇の臨席を求め、御前会議を招集。最高戦争指導会議のいきさつを奏上し、御前会議の慣例を破って天皇に意見を求めた。天皇は答えた、「私は外務大臣の意見に同意である(1条件でよい)。今となっては、一人でも多くの国民に生き残っていてもらって、その人たちが将来再び立ち上がってもらうほか道はない」。こうして天皇の聖断によって速やかな降伏が決まった。
翌10日、日本は「天皇の国家統治の大権を変更しない了解のもとにポツダム宣言を受諾する」ことをアメリカに伝えたが、アメリカから12日、「日本国の最終の政治形態は国民の自由に表明する意思により決定される」との回答を得た。この回答の解釈をめぐって最高戦争指導会議は再び紛糾。鈴木首相は14日御前会議を再び招集、経緯を説明し、再度天皇に聖断を求めた。天皇は答えた、「反対論の趣旨はよく聞いたが、私の考えは変わらない。要は、国民全体の信念と覚悟の問題であると思うから、先方の回答をそのまま受諾してよいと考える」。こうして二度の聖断を経て日本は戦争を終わらせることができた。
戦争はやめるのが最も難しい。敗戦は国の存続に直接かかわってくるゆえ、敗戦する国の意思決定ほど難しいものはあるまい。当時の日本の国の指導者(政治指導者、軍事指導者)は、敗戦の意思決定ができなかった。天皇の判断(聖断)でやっとできたのである。鈴木首相は聖断でなければ国の意思決定ができないことがよくわかっており、天皇が和平を欲し、終戦させたいと強く思っていることも熟知していた。
振り返ると、鈴木首相はぎりぎりのところで日本を破滅から救った。やや遅かったかもしれないが、あの時点での降伏によって、一時的に独立を失ったとはいえ、日本の国は維持され、後日復興を遂げることができた。
海軍の要職を歴任し、枢密院議長だった鈴木は78歳の高齢で首相を拝命した。固辞する鈴木に対して、天皇は「耳が遠くてもかまわない、もう他に人はいない、頼む」と懇請した。鈴木は侍従長だった68歳の頃、二・二六事件で襲撃を受け、瀕死の重傷を負ったが奇跡的に一命をとりとめた。奇跡的に永らえた鈴木が、最晩年で国を救う仕事を成し遂げた。
(令和7年8月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』(https://utsukushii‐nihon.themedia.jp/)などがある。