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   2003年8月1日号
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活躍するOB シリーズ
「頑張っています」 新しい職場
盛岡ガス(株)松園工場 西村 守
(平成14年5月、第9高射特科大隊を准陸尉で定年退職。54歳)
 当初は、自動車教習所勤務での経験と知識を生かせる所への就職を考えていましたが、ある日、援護班長から「盛岡ガスから3名の募集の話があるけれども、どうだ」と紹介されました。勤務場所・勤務形態・労働条件などの話を聞いたとき「お願いします」と即答しました。気心の知れた3人が同じ所で仕事ができれば、これ以上勇気づけられるものはないと思ったからです。
 勤務は3人が日勤・夜勤の2交替ですが、皆が危機意識を持ちながらも有意義に仲良く充実ある仕事ができ、大変満足しています。
 この工場は、盛岡市松園地区約6千戸に都市ガスを供給していますが、そのガスの製造及び送出設備を保守管理し、原料のLPガス受入やガス事業法で定められた燃焼製の測定記録を1日に2回行い、ガスの品質管理を徹底しています。安全かつ快適に仕事をするためには、よい環境作りも大切であり、構内整備も積極的に行いながら頑張っています。
 24時間365日、機械は働き続けています。常にその状態を細かくチェックし、お客様のニーズにしっかり応えることが私たちの使命と思っています。その中でもガスに係る災害の根絶は当然であり、一層の神経を使いながらの勤務が大変です。
 退職を予定されている方への助言として、(1)心身が資本であり、健康管理は自ら(2)会社を愛し、仕事には誇りと情熱を(3)人生はたとえ先輩でも、仕事のことでは後輩である。
 これらを自覚して頂ければ幸いです。
 私達3人は、お客様は勿論のこと地域住民が安全・快適な生活が送れるよう、保安要員として精一杯頑張ろうと思っています。

寄せ書き 家族特集
共通の趣味で結婚生活を楽しく
第4高射特科群・317中隊 陸士長  吉田リエ
 今年1月12日、2年間の交際を経て千葉で入籍、4月22日にグアム島で結婚式を挙げました。
 私は21歳、夫は33歳で一回り違うことで、友達からよく「話や趣味が合わないのじゃないか」などと聞かれますが、そんなことは全くなく、逆に世の中にこんなに似ている人がいるのかとビックリするほど趣味なども同じです。よく二人でゴルフや旅行をし、新婚旅行では二人でスキューバダイビングのライセンスも取得してきました。
 結婚前も結婚後も、千葉と名寄の遠距離で、現在も2ヶ月に1回ぐらいのペースでしか逢うことが出来ない状態です。飛行機も数えきれないほど乗りました。千葉と北海道を往復するのもお金がかかるため、お金を貯めようと話し合い、「携帯電話はお金がかかるからメールにしよう」と言うことに。夫と私はインターネットを使えるようにしたりと色々と工夫をして、節約を実行しています。
 しばらくは寂しく「遠距離新婚生活」ですが、夫に逢えることと2人の将来の夢が叶うように生活を節約してこれからも頑張るぞ!
 今、私は幸せ一杯です。
妻よ子供達よ
16普連・2中隊 陸曹長  田中喜代
 単身赴任で長崎地連(五島)から大村駐屯地へ来て早1年が過ぎようとしている。子供達とは口喧嘩、妻とも仲が良いわけではない。でも家族を深く愛している。
 大村駐屯地へ出発する前日、妻の豪華な手料理と子供達が初めて見せた涙に感動し、感謝の気持ちを新たにした。
 当日、妻と子供達に見送られ、不安とつらさがよぎる中、涙がこみ上げた。大村へ着き、連絡先をはがきで知らせると、すぐに子供たちから手紙が届き「身体に気をつけて頑張って!」と。
 そして、月に1回程度五島に帰り、妻の手料理でお酒を交しながら、「家が一番いい」こと、「自分がまるくなった」ことに気が付いた。私にとっての単身赴任は、家族の本当の愛を判らせてくれ、本当の家族のありがたみを教えてくれた。
 子供達と交わした手紙は一生の宝物。妻と子供達が優しくしてくれて時には難しいことも言うけれど、私にとっては最高の妻と子供達である。
妻の応援歌
111地警務隊・今井3曹夫人  今井 生久美
 毎日朝早くから、夜遅くまでお仕事お疲れ様です。
 結婚してから早いもので1年が過ぎました。松本に来て初めの頃は、右も左もわからず友達もいなくて「千葉に帰りたい」とわがままを言い困らせた事もありました。
 私が妊娠をした時、主人は仕事で家を空けることが多く、不安な時もありましたが、立ち会い出産のもと3月に長女深早希(みさき)が生まれ、今まで以上に家の中がにぎやかになりました。
 主人は仕事から帰ってくると、遅い時も疲れた時でも深早希をお風呂に入れてくれたり、休みの日は私の体を気遣って何かと面倒を見てくれるので、とても感謝しています。
 自衛隊の仕事は大変だと思いますが、深早希と二人でいつも応援していますので、体に気を付けてこれからも頑張って下さい。
僕のお父さん
42普通・十島2曹長男  十島 晧
 ぼくのお父さんは、ひじょうになべがすきだ。冬になると、ほとんど毎日なべになる。ぼくは、ぽんずなべがすきだ。でもお父さんは、味付けなべがすき。
 お父さんのいい所は、ほとんど毎日、ごはんのあとのデザートをかってきてくれる。
 ぼくは、そういうお父さんがすきです。それにたまにじょうだんを言うのがおもしろい。
 ぼくのお父さんは、ゲームで負けず嫌いだ。野球のゲームでぼくに負けると、かってに練習をしていました。しょうぎでもお父さんが勝つとぼくは、「こうは弱ーい」と言われます。でもぼくが勝ったらお父さんに、「お父さん弱ーい」と言いかえします。この前はぼくがしょうぎで連勝しました。だからお父さんに、「お父さん、あいてにならん」と言うと、お父さんは、くやしがっていました。
 ぼくは、野球部に入っています。しゅびは、ショートで一番バッターです。お父さんはいつも野球のアドバイスをしてくれます。
 お父さんは小さいころ、ソフトボールをしていてピッチャーで一番バッターだったそうです。僕もお父さんに負けないよう、がんばります。

回想の70年代(14)
「わたしの城下町」の謎
 だいき NHK朝の連続ドラマに小柳ルミ子が33年ぶりに出演したぜ。
 ひろか もう放送は終わったけど、この小柳ルミ子の出演を紹介した新聞記事を読んでパパは不可解だと言っていた。
 だいき その記事では"小柳の朝の連続ドラマ出演は「虹」以来33年ぶりで、同ドラマを収録中にデビュー曲「わたしの城下町」が大ヒットした"とありますが…。
 ひろか 「虹」は昭和46年3月まで放映されたドラマで、デビュー曲「わたしの城下町」の発売はその翌月です。これはパパが手元にある70年代ヒット曲集の解説をみて言っていることで、まず間違いないと思われます。
 だいき それじゃ、すぐ新聞社に抗議電話しなくちゃ。
 ひろか でも、当の小柳ルミ子自身がそう信じ込んでいるようなの。つまりさっきの記事の続きを見ると"小柳は「ドラマでは祖母の亡くなるシーンで泣き、デビュー曲がヒットしては泣き、一日中、真っ赤に目をはらしていたのを今でもよく覚えています……」"と書いてあった。
 だいき 事実はドラマで清純な娘役を演じて(当時まだ二十歳前)人気が出始めたところでそのイメージにぴったしの歌を歌って爆発的にヒットしたということであっても、「真実」は今や本人の言うとおりかも!
 ひろか いまさらジロー、じゃない、今更順序なぞどうでもいいとしても、昔のNHKではドラマの放映中に別の仕事なんか許さなかったと思うが、その点が忘れられているように感じる(パパ談)
 だいき 小柳ルミ子とならび人気アイドル歌手だった南沙織のデビューしたのも1971年で、ここから約15年間が人気アイドル歌手の最も輝いていた時代と言えるだろう。
 ひろか 今回の本題はこれまでにして、あとはお遊び【ヒット曲に登場する外国人】
マリー ペトロ&カプリシャス
ジョニー ペトロ&カプリシャス、アリス
ニーナ 沢田研二
ローラ 西城秀樹
キャンディ 原田真二
メリー・ジェーン つのだ☆ひろ
モニカ 吉川晃司
 実在の人物では映画スターが多い。
アル・パシーノ 榊原郁恵
アラン・ドロン 〃
マリリン・モンロー 南佳孝
ホブ・ディラン(歌手) ガロ
 一番よく登場するのは若いまま突然世を去ったジェームスディーンであろう。原田真二/甲斐バンド/嶋大輔/大澤逸美 「ジェームス・ディーンみたいな女の子」なんて変な曲だなと思ったら、3曲くらいで歌謡界から消えたので納得−−分かるかな?
 ボギー(ハンフリー・ボガード) 沢田研二 主演映画「カサブランカ」は郷ひろみ、鳥羽一郎もとり入れている。

部外者の声
防衛大学校見聞記
私立今治明徳高枝矢田分校教諭  池田 譲二
 静かである。異様に静かである。私は今、防大にいる。防大の顔である本部庁舎の前にいる。防衛大学校が、将来、自衛隊の幹部自衛官を養成する学校である以上、威勢のよい掛け声や叱咤激励の声がどこからか聞こえても良さそうなもの。それが、物音ひとつしない。まるで、どこかの研究所のような静けさだ。
 その意味が分かったのは、午後の研修だった。理工学専攻の建設環境工学科の実験室を見学した。その充実した施設を見て説明を受けた時、「そうだ、ここは大学だ、大学なんだ」ということを思い知らされた。その気持ちは図書館を見学して更に強くなった。見事である。その蔵書といい、施設といい、まさに勉学研究には至れり尽くせり見事な設備である。防大が学問研究にかける情熱と意図が十分伝わってきた。
 一番、防大らしいと感じたのは、課業行進だった。一糸乱れぬ行進はまさに圧巻。しかし、それとても体育会系のそれではない。整然とあくまでも整然と、強制された外形の美しさではない。精神の内側から自らの意志でそれをなしているという雰囲気。そして、それが日常生活の中に定着していることがよく分かる。
 私が、彼らの素顔を垣間見たのは、食事の時だった。我々研修に参加した19名は、それぞれ地元出身の学生達と食事を共にした。背筋を伸ばし、礼儀正しい日本語を流暢に使いこなす。短く刈った頭髪、相手の目を見て話すその姿勢に、彼らの自信と誇りが伝わった。それは、何事も自己中心的で身勝手な若者を見続け、いささか辟易している私にとっては新鮮な喜びだった。防大の学生は勉強だけでなく、体力や運動能力も求められる。それとても、天性のものではなく、日々の鍛錬や訓練によって生み出されているという。
 大学よりも大学らしい研究施設、そして礼儀正しい若者。研究と人作り、それが私の見た防大だった。

予備自衛官の定年を迎えて
長谷川 貞三
 私は予備自衛官を6月30日で定年となりました。42年間は記録的かと自負し自慢と誇りに思っております。というのはこの間に都会に再就職しその後親元に帰り農業と屋根板金業をしていましたが40歳過ぎに胃の切除手術のため廃業して出稼ぎなどをし今は近くの設備会社で働いています。でも1度も予備自衛官を辞めようと思ったことはありません。
 むしろ毎年4月の予定計画を立て、忙しい中でも出頭して来ました。
 帰省の休暇を利用した武山部隊や千葉の下志津、習志野の屋内射撃場で射撃もしました。三沢から空自機で真駒内部隊に転地訓練もしました。
 当初まだ弘前に部隊がなかった頃に私の集落に5人の予備自衛官がいまして単車を連ねて八戸の部隊まで出頭した事もありました。2年間の自衛隊生活の中で1番の思い出は岩手山の演習で横山栄中隊長の伝令として勤務した事。ちなみにその時の小隊長は防大出の3尉で後に方面総監になられた重松恵三氏でした。今はない5連隊3大9中隊が原隊です。またこの間私と接し指導して下さったみなさんありがとうございました。

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