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自衛隊ニュース   1119号 (2024年3月15日発行)
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ノーサイド
北原巖男
元防衛大学校長 五百籏頭眞先生と東ティモール

 筆者が、初めて五百籏頭眞先生を神戸大学の研究室に訪ねたのは、かれこれ20年近く前のことになります。
 その五百籏頭眞先生が、3月6日、急逝なされました。残念でなりません。
 五百籏頭眞先生は、2006年8月に防衛大学校長に就任され、2012年3月まで務められました。
 将来、陸・海・空自衛隊の幹部自衛官となるべき者を養成する防衛大学校。その使命は重く、防衛大学校長の責任は甚大です。
 3月8日、久保文明防衛大学校長は、哀悼の意を表されると共に幾多の業績を挙げられた五百籏頭元学校長のご尽力に感謝を表明されています。
 「五百籏頭元学校長は、複雑化する国際社会におけるわが国の将来の課題と役割を見据え、その任務を担う幹部自衛官の育成こそが防衛大学校の職責であり、そのためには、本校が安全保障研究や戦略・戦術研究においても最先端の研究機関たるべきとの問題意識のもと、国際交流の充実、募集定員の拡大、総合安全保障研究科後期課程の開設、地域研究担当官の増員、防衛省設置法改正による研究任務の法制化、科研費による研究活動への参加など、多くの施策の実現に尽力されました。」(3月8日付け 久保文明防衛大学校長 記 筆者抜粋 防衛大学校HP)
 本稿では、五百籏頭学校長が尽力された「国際交流の充実」の中から、2002年に独立を回復したアジアで一番新しい国・2025年のASEAN加盟を目指す東ティモールとの関係について取り上げたいと思います。
 2023年7月から再び東ティモールの首相を務めているグスマン首相は、3月11日、ちょうど東ティモールを訪問中の山田 満早稲田大学教授と会談された中で、弔意を表明されると共にご遺族宛の弔意文の伝達を託されました。
 2008年、五百籏頭学校長は、東ティモールの国父であるグスマン首相(当時)の要請を踏まえ、同国国軍(F-FDTL)の若手軍人の防衛大学校留学受け入れを決断されました。「東ティモールといえば、自衛隊がPKO活動を行った地である。住民に銃口を向けるのではなく、住民のお役に立つことを進んで行う有能で軍紀の確かな自衛隊、その評判を得た活動であればこその要請であろう。」(平成22年度防衛白書「COLUMN‥東ティモールからの留学生」 五百籏頭眞防衛大学校長 記 筆者抜粋)
 更に、2009年3月には、グスマン首相(当時)を防大に招き、全防大生に講演して頂きました。同首相は、インドネシアとの激しい独立回復闘争のことや国づくり、規律正しい軍幹部の養成のために防大に若者を留学させたいと考えたこと等について話されました。独立回復闘争のリーダーとして命懸けで戦い、今は国民がより良い生活が出来るよう国づくりに取り組んでいるグスマン首相。誕生後間もない民主主義国家の指導者の話しは、次代を担う防大生の心をつかんだのではないでしょうか。
 そして2010年4月、4名の留学1期生が防大に入校しました。男女各2名。特筆すべきは、五百籏頭学校長が、防大の歴史始まって以来、初めて、外国人女性留学生を受け入れたことです。東ティモールの国防を担う女性幹部の育成を自らの使命とされていたグスマン首相(当時)は、とても感謝されました。
 5年後の2015年3月、卒業式には東ティモールから国防大臣と参謀長が駆け付けました。自分の名前を告げられると大きな返事をして、卒業証書を両手でしっかり受ける男性留学生2名と女性留学生1名(残念ながら1名は途中で帰国)を、とても嬉しそうに見守っていました。
 防大初の外国人女性留学卒業生となった彼女は、国軍で活躍中です。防衛省・自衛隊による国軍の能力構築支援や防衛大臣を始め要人の東ティモール訪問等に際しても、橋渡し役を立派に果たしています。
 五百籏頭学校長が東ティモールに門戸を開いてくださって以降、防大の教職員の皆様はじめ関係の皆様の厳しくも温かいご指導・ご支援等を賜り、既に17名の留学生が防大を巣立ちました。防大卒業生であることを示すメダルを誇らしく胸につけて、それぞれが東ティモール国軍の若手幹部として頑張っています。江田島の海上自衛隊幹部候補生学校や防大理工学研究科前期課程を修了する卒業生も出ています。
 防大における人材育成は、民主主義国家東ティモールの国軍づくり、国づくりに大きく寄与していると言うことが出来ます。
 そしてこの4月には、新たな1名が防大の門をくぐります。
 2011年秋、五百籏頭学校長は東ティモールを訪問されました。東ティモール国軍、警察、消防、内務省を始め東ティモール政府の関係機関の皆さんを対象に、自ら被災し自宅は全壊・教え子のゼミ生を失った1995年の阪神・淡路大震災や2011年3月の東日本大震災の翌月に発足した「復興構想会議」議長としての体験等を踏まえた防災や減災、復旧・復興等について、東ティモールの地理的条件・国情等を踏まえながら丁寧に説明され、アドバイスを送られました。
 五百籏頭学校長は、短い東ティモール訪問期間中、大使公邸に滞在されましたが、帰国当日、飛行機に乗り遅れてしまうのではないかと周りがヒヤヒヤするまで机に向かい一生懸命原稿を書かれていました。「締め切りギリギリに届く手書きの原稿には悩まされたが、いつしか癖のある字が読めるようになり、学者の硬い原稿とは一味違う、軟らかな文章に魅せられた。」(3月8日付け 毎日新聞 アジア調査会事務局長・毎日新聞客員編集委員 岸俊光 記)。ひょっとしたら、この原稿を書かれていたのかも知れません。
 五百籏頭眞先生、
 最愛の奥様と再び一緒になられましたね。
 お二人のあの素敵な笑顔が浮かんで参ります。
 心よりご冥福をお祈り申し上げます。
 本当にお世話さまになりました。

北原 巖男(きたはらいわお) 元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事


全血液型対応の製剤を自前で製造
 戦傷医療における死亡要因の多くが失血死であり、そのため輸血に使用する血液製剤の確保・運用が極めて重要な課題となっている。
令和4年末に閣議決定された「防衛力整備計画」では「外傷医療に不可欠な血液製剤を自衛隊において自律的に確保・備蓄する態勢の構築」が検討課題として掲げられている。
 現在は日本赤十字社から各適合血液を調達しているが、今後防衛省・自衛隊は有事の際に充分な量を確保するため自前で製造・保存する方針を固めた。
 2月21日、「防衛省・自衛隊の戦傷医療における輸血に関する有識者検討会」がとりまとめた提言書が松本尚防衛大臣政務官に手渡された。提言書には血液型を問わずに投与が可能で、止血効果がある血小板を含んだ「低力価O型」が、「シンプルで迅速に輸血でき、不適合輸血を回避する観点から極めて有用」だと結論づけられた。
 有識者検討会の鈴木康弘氏(国際医療福祉大学学長)は「血液製剤の製造について、自衛隊内での安全管理・供給・運用を構築し、一人でも多くの隊員の救命に役立てて欲しい」と要望した。松本政務官は「この提言書を基に輸血の運用について固めていきたい。あとはお任せ下さい」と応えた。

戦傷治療集合訓練
<衛生学校>
ライブで全国の部隊に配信

 陸上自衛隊衛生学校(学校長・水口靖規陸将補=三宿)は1月16日と18日に、「令和5年度戦傷治療集合訓練」を実施した。各方面隊等を代表して5個衛生隊が参加し、戦傷治療の実効性を向上させた(中方は能登地震災害派遣のため不参加)。

防ぎ得る戦傷死
死因の90%が出血

 米軍における分析では(2001年〜2011年)、治療施設搬送前の死亡が約87%、うち「防ぎ得る戦傷死」は約24%、うち91%は出血が原因とされている。陸自の救命ドクトリンでは一人でも多くの戦死者を減らすために「受傷後10分以内の救護、1時間以内のDCS(止血と汚染回避に主眼をおいた術式)、あらゆる手段を用いた迅速・確実な後送」を目指すと規定されている。本訓練ではそれに沿って作成された「戦傷治療ガイドライン」に基づき、練度評価形式と学科試験が行われた。

過酷な環境下で処置

 三宿駐屯地体育館内に設営された収容所。第一線よりもやや後方に設置される連隊収容所を想定したものだ。ここで初めて医官による治療が行われる。緊張性気胸による呼吸窮迫、四肢断裂等の症状を抱えた3名の患者が運ばれてくる。有事の際は、物資・人員・時間、衛生面等が制限され、かつ複合的に事案が発生する。そのような過酷な環境の中でいかに冷静な処置を行い、次の収容所や病院等に後送できるか。

その場で講評伝える

 参加部隊の構成は収容所班長以下7名。医官はあえて指示を出さずに隊員達が自ら考え行動するように仕向けた。審査員たちの厳しい目が光る。慌ただしく時間は過ぎ、あっという間に約1時間の訓練が終了を迎えた。その後、間を置かずに審査員から講評が伝えられた。まだ記憶が新鮮なうちに「あの時の動きの根拠は?」等、隊員たちに細かい確認や指摘が続く。その後ろでは次の訓練のための準備が行われていた。
 訓練の様子は全国の部隊にライブ配信され、現場でも誰もが見学できるようにした。その中に将来の自衛隊衛生を担う若い学生たちもいた。彼ら彼女らの訓練を見入る真剣な眼差しに、大きな期待を感じざるを得なかった。


雪月花
 イスラエルのガザ地区への無差別攻撃はいつまで続くのか。無防備・丸腰の一般市民への機銃掃射はおかまいなしで死者は3万人を超えたと言う。ウクライナ・ロシア戦争やイスラエル・パレスチナ戦争を見ていると戦争とはこんなにも残酷で悲惨なものかと改めて考えさせられる。動員された兵士たちもこの場に来るまでは優しくて陽気な青年であり父親だったはずだが、命令に従い民間人も容赦なく標的にする人間になっていく。これに近い事件は第2次大戦に日本でもあった。終戦間近の1945年6月末に起きた疎開船襲撃事件である。石垣島から台湾に向かう疎開船2隻が米軍機に襲撃を受け大勢の女性や子供、老人たちが犠牲になったのだ。11年前にこの事件をキャッチした作家でジャーナリストの門田隆将さんが10年に渡り取材を続け「尖閣1945」(産経新聞出版)を昨年末に著した。石垣島から台湾に避難する人を乗せた3隻の疎開船に乗った人たちの紙一重の運命が生死を左右する様が書かれている。門田さんは週刊新潮の記者から副編集部長をこなしているジャーリストだから生存者の証言や現地取材による裏付けにも落ち度はない、それだけに同書を読み進めると鳥肌が立ちそうな恐ろしさを覚える。米軍の襲撃により沈没を待つだけになった船内は阿鼻叫喚、「お父さーん、お母さーん」の泣き声や、「兵隊さん助けて」などといった悲鳴が満ちた。死を前にした人々の断末魔だった。血まみれになった人間がもがき、あがく姿は凄惨だ。ひとりの妊婦は子沢山で、背中に負ぶっていた子供を下ろし、帯でほかの子どもも一緒に束にして括り、もう一本の帯で自分と一緒に結わえてそのまま海の中に落ちて行った。「生きようと死のうと親子は一緒」その母はおそらくそう考えたのだろう。同書では何百年も前から日本の領土である尖閣諸島を、中国が武力を使ってでも自国領にしようとする最近の動きに日本が十分に対抗できていないことを憂いている。中国が尖閣諸島の領有権を主張し始めたのは、昭和43年に国連が「東シナ海に石油埋蔵の可能性あり」と発表してからである。門田さんは中国の主張する根拠をことごとく潰している。さすが「戦争ノンフィクション作家」と呼ばれることに納得する。武力によって現状を変更させることは絶対にあってはならない。

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