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   2004年6月1日号
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寄せ書き
名寄市民と共に
第2偵察隊 3陸佐  藤田未蔵
 名寄市民と共に活動する部隊の一端を紹介したいと思います。偵察隊は昭和26年5月に正式に発足し昭和29年にここ名寄に移駐して、今年で創隊53年の月日を迎えることになります。伝統ある第2偵察隊の活動に、名寄市民として楽しみながら参加する行事がいくつかあります。夏祭りの「奴さん」、「鬼追い祭り」、「天文字焼き」など大勢の隊員が参加して祭りを盛り上げております。これらの行事への参加は、第2偵察隊の伝統で欠かすことが出来ません。また、隊員も祭りを楽しみにしており、かくいう私も次の「奴さん」
には是非参加したいと思っておりますし、名寄市民としての自分を強烈に自覚できる良い機会でもあります。大勢の観客の中には自分たちの家族もおり、その観客と祭りに関係している人達との一体感は参加しなければ味わえないものです。その一体感こそがかけがえのないものであり、市民と自衛隊の信頼関係に欠かすことができないものなのではないでしょうか。我々は今後とも一市民としてこれら行事に参加したいと思っております。
 さて、今自衛隊は変革の真っ只中におります。イラク復興支援派遣など現在進行形の重要な任務も我々は遂行中です。隊長も副群長としてイラク復興支援群所属となり遥か中東の地におります。この記事が新聞に掲載される頃には、他に数名の隊員が派遣されていることでしょう。このような重要な変革期も、第2偵察隊は騎兵の特性を生かし、いかなる状況にも対応します。我々は自衛官として名寄市民として、喜んで各種市民活動に参加したいと思っております。
 私は自衛隊に入隊以来、5つの地域に暮らしてきました。名寄は今まで暮らしてきた地域以上に自衛隊と町との一体感が感じられ、非常に住みやすいと感じております。昨今、自衛隊に関する各種議論がありますが、これらに惑わされることがなく今後とも市民と一体化した活動が出来るように積極的に取り組むことがますます重要になってくると思います。
名寄雑感
第2偵察隊 2陸尉  加藤晋次
 初めて名寄の地に来たとき、あまりの雪の多さと寒さに閉口しました。北海道では道東でしか生活したことがなかったので、この時期にまだ雪に閉ざされている地域があるのに驚き、今後の生活に不安を感じました。また、改めて北海道の広さを感じました。3シーズン名寄で生活させていただいていますが、感じたことをいくつか述べたいと思います。
 1つ目は1年の気温差が激しく、1年のうち約5ヶ月間は雪に閉ざされていることです。名寄市民はこの厳しい環境下においてよく生活されていると感心しました。雪質日本一と謳っている名寄市で生活するのだから、ゲレンデスキーは人並みに滑れるようになりたいと、私は名寄に転属が決まったとき思いました。現在、駐屯地スキー教室に通っております。まだまだ人並みには滑れませんが、以前よりは僅かながらではありますが上達していると思います。今後も楽しみながらゲレンデスキーに取り組み、名寄での勤務の間に人並みに滑れるよう練習していきたいと思っております。
 2つ目は冬の朝の美しさです。私は時々駆け足で通勤しますが、厳寒の出勤は天塩川からの川霧があたり一面をぼかします。また晴天の日には、ダイヤモンドダストが見られ、幻想的な世界に引き込まれます。3シーズン目を迎えますが、いつ見てもこの光寮には新鮮さと感動をおぼえます。
 最後に自衛隊に対する名寄市民の住民感情がとても良好だということです。例えば帰宅途中にコンビニで制服を着たままで買い物をしても違和感が感じられず、飲食店へ行っても店員さんにすぐ自衛官だと見抜かれ、店の従業員・お客さん共に好意的であり、美味しいお酒が飲めます。生まれてから今日まで色々な場所に住みましたが、中でも名寄市は自衛隊に対して非常に好意的な町だと思います。これは市民と自衛隊とのあらゆる面での良好な関係を築かれてきた諸先輩方のたゆまぬ努力の賜であると思います。私もこの良好な関係に微力ながら貢献して、名寄市および名寄駐屯地の発展にお役に立てたらと思っております。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
東京海上火災保険(株)つがる損害サービスセンター  三上知彦
三上氏は平成14年2月、第9偵察隊(弘前)を2陸佐で定年退職。58歳
 光陰矢の如しの例えどおり、早いもので定年後2年が過ぎようとしていますが、現在の会社にどうにか勤務しているのも自衛隊で永年培われた精神の賜ものと感謝している所です。
 さて、私の仕事は、損害保険会社で交通事故の対人賠償を担当しております。具体的内容は、事故の当事者、つまり被害者、加害者・契約者等あらゆる関係者との交渉を通じて、金銭的に解決する訳ですが、その期間も数カ年要するものや重篤な事案まで同じ内容のものは一つも無く、ストレスの多い仕事ではありますが、その処理の全てをある程度自分の計画で責任をもって担当し、またある一面において人の役に立つ事でもあると思いますので、誇りとやり甲斐をもって仕事に励んでいる毎日です。これも、現職時代に服務事故
当事者の気持ちや悩み、そして指導などの処理過程における教訓が役立っているものと思います。
 入社後の苦労としては、自衛隊では「ご苦労様です」の挨拶でそれは目上の人の言葉のため会社では「お疲れ様です」を言います。従って35年間に身についたものが容易に直らず苦労しましたが、この頃違和感なく言えるようになったものです。
 最後にこれから定年または再就職される方に一言、それは現在の職務を最後まで気を抜かず全うする情熱と精神力そして行動力を持ち続けてもらいたいということです。また自衛隊においては、定年まで体に草をつけ訓練のみに没頭していた人は再就職時苦労すると言われますが、会社において新たな気持ちをもって仕事に慣れるためには、自分を信じて積極的にやり遂げる熱意と職務・会社を大切にする誠意ある態度が重要でありますので、現在を大切にしてその準備に万全を期してもらいたいと思います。

回想の70年代音楽 (30)
麻生よう子「逃避行」の謎
 だいき 前回、74年デビューの女性アイドル歌手の話をしましたが、この年のレコード大賞最優秀新人賞を獲得したのは当時19才(1955年生まれ)の麻生よう子「逃避行」でした。
 ひろか たまたま今月のANA機内放送サービスの邦楽番組で今から30年前のヒット曲を取り上げてまして、その一つとして鈴木史朗の前口上付きで聴いてきました。それからインターネットの検索で「麻生よう子」を当たってみると一昨年2月にソニー・ミュージックハウスから「逃避行」を含む6曲1,050円(税込)のCDが発売されていることが分かりました。それから「逃避行」は着メロサービスのリストにも入っているとか…。
 だいき インターネット検索ってすごく手軽に情報が入手できるんですが、ただ、サイトの中には何やら怪しげなアダルト画像系みたいのもありまして要注意ですね。
 ひろか ところで先程紹介したCDのコメントには"ヤング・アイドル全盛の中、豊かな歌唱力と落ち着いたアルトで人気を博した"とありますが、確かに不実な男に振り回されながらそれでも信じようとする女性の心の揺れ、そして諦(あきら)め、新たな決意が巧みに表現されていると感じます。
 だいき この曲、当時売れっ子作詞家だった千家和也(山口百恵の「青い果実」とかのシリーズで有名!)の手になるもので、作曲がこれまた売れっ子の都倉俊一なのですね。いかに当時彼女が期待されていたか、ここからも分かりますね。
 ひろか ところでその詞なんですが、"午前五時に駅で待て"と言われた女性は男が現れないので"また空(す)いた汽車を〜見送った"わけですよね。でも、そんな朝早くから次々に汽車(電車)が来るなんて、山手線だってムリなんじゃないかな。
 だいき そう突き詰めちゃ風情がありませんが、ぼやき漫才(注)で高名だった人生幸朗・行方幸子(じんせいこうろ・ゆくえさちこ)コンビならネタにしてくれそうですね。まあ常識的に言えば、汽車はそんなに頻繁に出ていくわけじゃない、せいぜい30分間隔でしょうが、しかし待ちくたびれた女からしてみるとまた、また、また見送ったということでしょう。
 ひろか その後の麻生よう子ですが、残念ながら2曲目の「午前零時の鐘」以降は目ぼしいヒットがなく、一時期ヨガの方で有名になったものの現在は芸能界を引退している模様です(ただし確たる情報なし。)
 (注)40歳台以上の方は十分ご存知でしょうが、その時々のヒット曲の歌詞から不条理な部分をえぐり出し、大阪弁でボロクソにこきおろす人気漫才師でした。たとえば五木ひろしのあるヒット曲(題名忘れた!)の一節"川は流れる橋の下♪"に対して「そんなん当たり前やないか、橋の上まで流れてきたら大洪水や」と、こんな感じでしたね。

部外者の声
家族の絆に触れて
武田高校(広島県) 2年  桧山 明里
 私は、自衛隊のイラク派遣問題をよくテレビや新聞などで見てとても関心を持っています。そして、自分の目で事実を知り調べていきたいと思っていました。
 今回の「さみだれ」出港では思っていたよりも多くの人々が見送りに来ていました。出港30分前に港に着きました。そのころは、見送りに来ていた人達はみんな笑顔で隊員の皆さんと話していたように思いましたが、いざ出発の時が近づくと、次第に家族の皆さんの
目に涙が浮んでくるのがわかりました。
 1人の子供さんがお父さんと離れたくないのか、しがみついて泣いていました。私は、その場面を見て自分の心の中に、"かわいそう"という気持ちと"このお父さんは本当に大変なお仕事をしているんだな"という、尊敬の気持ちを覚えました。「さみだれ」の出港を通じて家族の絆の大切さを感じました。

予備自補から予備自衛官になって
鹿児島地連 予備2陸士  見坊礼根
 私は1年前に予備自衛官補(一般)に採用され、この9月に教育訓練を終了して予備自衛官に任官した者です。
 予備自衛官補を受験したときは、自衛隊になじめるのだろうかと不安でいっぱいでした。しかし、予備自衛官補の訓練内容は非常によく計画されており、充実した日々の中で心身ともに成長を実感できました。特に射撃では思ってもいなかったほどの好成績を収め、いくらか自信をつけることもできたと思います。50日間の教育訓練を終えて、予備自衛官に任用されることになりました。
 そして今回、初めて予備自衛官の訓練招集で国分駐屯地に出頭しました。2等陸士の階級章がついた制服を貸与され、袖を通したときには、「国民のために働く予備自衛官になれたんだ」という喜びを覚えました。
 とはいうものの、何年何十年も自衛官として勤務された先輩方には到底及ぶところではありません。号令かかかっても一つ一つ考えてから動作に移る私では、いつも皆さんに遅れてしまいます。しかし右も左も分からないような私に、先輩方は全般にわたって丁寧に教えてくれました。お陰様で今回の訓練も無事に終えることができました。
 今はまだ頼りない私ですが、訓練を重ねることで皆さんのようなテキパキとした行動ができる予備自衛官になりたいと思います。そして有事となれば人のために働いて、国民から「ありがとう」と言われたいと思います。

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