第55代内閣総理大臣石橋湛山は、日本の歴代首相の中で(おそらく最高の)卓越した知性と哲学思想の持ち主だった。しかし、同時代の日本人はほとんどそれに気付いていなかった。激動する昭和の時代、政治経済のあり方を発信し続けた石橋湛山は、どのような思想家だったのか。
湛山は徹底した自由主義者だった。湛山は「断固として自由主義の政策を執るべし」と言い、「自由主義の政策とは何ぞや。政治上、経済上、社会上、乃至思想道徳上における個人の行動に機会の均等を与え、その自由を保障する政策これなり」と説いた(1914年東洋経済新報社説)。湛山は軍部や世論の圧力に屈することなく自由な論陣を張り、ジャーナリストとしても政治家としても、自由主義者の信念を貫いた。
湛山は民主主義者だった。議会制民主主義をブルジョワ独裁の手段などとは見ず、絶対主義ないし全体主義的専制政治を排して国民全体の欲望を広く反映し、漸進的に人間的自由を実現していく方法と考えた。湛山は大正デモクラシーを高く評価し、鼓吹した。元老政治、藩閥・軍閥政治を批判し、普通選挙法の早期実現を主張した。選挙権拡大による国民的利害の議会への浸透と、大衆の監視による活きた議会制民主主義の実現を目指した。英国の自由党や労働党のような野党が成立して、チェック・アンド・バランスの政党政治が実現することを目標とした。
湛山はプラグマティストだった。湛山は早稲田大学哲学科を首席で卒業したが、在学中、田中王堂に私淑した。王堂はデューイに師事して日本にプラグマティズムを伝えた哲学者である。湛山はJ・S・ミルからJ・デューイと展開していった英米の功利主義哲学の良き伝統を受容し、ドイツ流の哲学的観念論に惑溺することはなかった。湛山の思想、活動には強靭な理性的良識(コモンセンス)がみられる。非常に合理的に考え、ラジカルな自由主義者、民主主義者であるが、活動は粘り強く、現実的だった。
湛山は福沢諭吉と二宮尊徳を深く尊敬していた。湛山は言う、「私が福沢翁に傾倒する理由は、その門下に向かい、自ら実行できる確信のある主張でなければ、それを唱えてはならないと戒めていたことである。福沢翁も二宮翁も進歩的思想家でありながら、きわめて実践的だった」、「二宮翁は勤勉で倹約家として知られるが、私が翁を偉いと思うのは、徳川時代の日本で驚くべき自由主義に立脚していたことである。翁は、いかなる聖人の教えでも自己の判断で納得できないものは用いない、という大胆な自由思想家であった」。
石橋湛山は根底に宗教心をもった人だった。湛山は日蓮宗の高僧杉田湛誓の子であり、少年期を同じく日蓮宗の高僧望月日謙のもとで過ごした。湛山は言う、「有髪の僧のつもりであって、宗教家たるの志は、いまだこれを捨てたことがない」と。日蓮宗の在家または平信徒としての信仰が、湛山の生き方の根底をなしていた。湛山は晩年基督教も受け入れた。日蓮宗権僧正に叙されていた湛山は、晩年聖路加病院入院中、基督教の礼拝を欠かすことがなかったという。
世界主義者で平和主義者だった湛山は、77歳のとき「日中米ソ平和同盟」構想を提唱した。世界が冷戦から平和共存に向かうと予見した上での湛山の提唱であるが、現実性を欠く夢想論とされ、実際に冷戦の終わった1989年以後も構想は実現していない。昨今はナショナリズムと、価値観の違いによる国家の対立感情は、むしろ強くなっている。昭和の時代あれほどの先見性を示した思想家湛山の提唱である。真剣に検討する余地はないだろうか。
(令和6年4月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |