勝海舟は幕臣ながら幕府を超えた新しい日本の国のあり方を追求し、流血の非常に少ない革命(明治維新)を経て、近代日本を生む歴史を切り開いた。困難を極める幕末の日本で、卓抜した知力をもって急激に変動する社会を誤ることなく生き抜いた勝海舟の知は、どのような知だったのだろうか。
海舟は、非常に開明的な知者であった。海舟は20代に蘭学を修め、30代で数年間長崎の海軍伝習所でオランダ人と交流し、38歳のとき咸臨丸で渡米してアメリカを知った。海舟は当時の日本で最高レベルに西洋の知に通じた一人だった。
海舟の知は非常に合理性に富み、公明正大を好んだ。これは彼の西洋の知に由来するものでもなく、海舟という人間の生来の傾向のように思われる。海舟は日本人的なウェットさはあまりなく、考え方や行動は西洋人に近いところがある。「おれはいったい日本の名勝や絶景は嫌いだ。みな規模が小さくてよくない。支那の揚子河口は実に大海のように思われる。米国の金門に入ると気分が清々する」などと言う海舟の感覚は、開かれた合理性を好む海舟の知と深いところでつながっている。
海舟は硬直的なイデオロギーや主義とは無縁で、現実を直視し、合理的で柔軟な知を求めるリアリストであった。海舟は言う。「主義といい、道といって、必ずこれのみと断定するのは、おれは昔から好まない。単に道といっても、道には大小厚薄濃淡の差がある。しかるにその一を揚げて他を排斥するのは、おれの取らないところだ」、「世の中のことは、時々刻々変遷極まりないもので、機来たり、機去り、その間に髪(ハツ)を容れない。こういう世界に処して、万事小理屈をもってこれに応ぜようとしても、及ばない。世間は活きている。理屈は死んでいる」と。ここに海舟の知の特徴がよく表れている。
そしてこの変転する現実に正しく処する海舟の胆識は、坐禅と剣術によって養われたという。「こうしてほとんど4年間真面目に修行した。この坐禅と剣術とがおれの土台となって、後年大層ためになった。瓦解の時分、万死の堺を出入して、ついに一生を全うしたのは全くこの二つの功であった。この勇気と胆力は畢竟この二つに養われたのだ」と。
海舟は晩年、「きせん院の戒め」という体験を語る。昔本所にきせん院という行者がいて、富くじの祈祷がよく当たるので、大いに流行して羽振りがよかったが、あるときから祈祷が当たらなくなり、落ちぶれてしまった。自分の祈祷が当たらなくなった理由をきせん院が若い海舟に語った。一つは、あるとき富くじの祈祷を頼みにきた美人の婦人に煩悩を起こし、口説き落として、その後祈祷をしてやった。祈祷の効験があって富くじは当たり、後日婦人がお礼に来た。再度口説こうとしたら婦人に拒否され、「亭主ある身で不義をしたのは、ただ亭主に富みくじを取らせたかったからだ、また不義をしかけるとは不届き千万な坊主」とにらみつけた。もう一つは、ある日スッポンを殺して食べたが、スッポンの首を打ち落としたとき、スッポンが首をもちあげて大きな目玉で自分をにらんだ。この二つのことが始終気にかかって、祈祷も次第に当たらなくなったという。自分の心に咎めるところがあれば、いつとなく気が萎え、鬼神とともに働く至誠が乏しくなる。人間は平生踏むところの筋道が大切です、と。
海舟はこの話を聞いて豁然と悟るところがあり、爾来この心得を失わず、今日までいささかたりとも人間の踏む筋道を違えることがなかったという。この話は勝海舟の知の力を知る上で非常に興味深い。
(令和5年6月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。
著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |