日本国史学会代表理事で美術史家の田中英道は、フィレンツェでイタリアの高名な人類学者のフォスコ・マライニー(1912-2004)にこう言われた。「日本には大変なショックを受けました。日本は私を目覚めさせたのです。西洋人のキリスト教や古典学に依拠しないで、立派な文明をもっている国が、そこにあったからです。どちらを向いても道徳的一貫性、正義感、精神的な成熟さを示す人々に出会うことができました。そこで、西洋のキリスト教が最高の宗教ではなく、相対的、歴史的な存在だと知らされました。どの宗教、どの哲学も、人間の存在、時間、死、悪を説明する試みの一つにすぎないのだと。日本人は自分たちのすぐれた考えを、西洋人に向かって書物で広く知らせているわけではないけれど、日本に行ってみるとそれを実践しているのです。そうした日本という国の存在自体が、西洋に挑戦を突きつけているのです。日本という国は、その世界地図に占める小さな位置よりも、はるかに大きな存在なのですーーー」と。
フランス文化、イタリア文化をはじめとする西洋文化の研究者だった田中氏はその後日本文化の研究を始め、日本と外国との比較を通して理解される日本文化の質の高さ、日本の歴史の独自性を『新しい日本史観の確立』、『日本の歴史 本当は何がすごいのか』などで発表していった。
民俗学・比較文明学の故・梅棹忠夫(1920-2010)は、西ヨーロッパと日本は歴史的、地理的に条件が似ていたため、文明が平行して進化したという「文明の生態史観」を唱えた。梅棹はアジア、ヨーロッパ、北アフリカを含む全旧世界を第一地域と第二地域に分ける。第一地域は西ヨーロッパと日本。西ヨーロッパと日本は、はるかに東西に離れているにもかかわらず、封建制度を経験するなど両者のたどった歴史の型はよく似ている。第二地域は第一地域にはさまれた全大陸であり、広大な乾燥地帯を含む。乾燥地帯は暴力の源泉で、第二地域は古代文明を発生させながら、この地域の歴史は破壊と征服が顕著である。梅棹は言う。第一地域は恵まれた地域だった。中緯度の温帯、適度の雨量、高い土地の生産力、豊富な森林。この地帯は辺境のゆえ、中央アジア的暴力が及ばず、第二地域からの攻撃と破壊を免れてぬくぬくと育ち、何回かの脱皮をして今日に至った、と。
また、ドナルド・キーンは言う。「近世の初め、徳川初期のヨーロッパ人は日本を見て、日本の文化はだいたいヨーロッパの文化と同じ水準に達していると言っていました。もっと客観的に考えますと、当時の日本文化の水準は、あらゆる点でヨーロッパよりはるかに上だったと私は考えています」、「近世の日本ではヨーロッパのどの国よりも本を読む人が多く、おそらく日本の読書人口は世界で一番多かった」と。
しかし、二百数十年後の幕末、ペリー来航によって西欧文明に直面して開国した日本は、強力な西欧文明の優越性を認め、文明開化と称してこれを学び、その導入に邁進した。それはまた日本の近代化でもあった。科学技術、医学、軍事、憲法、政治制度、経済制度、学制、哲学、文学、思想など文明にかかわるあらゆるものを西欧に学び、取捨選択して吸収した。
現代日本文明は、江戸期の文明に比べて高度に西欧化の進んだ文明となった。しかし日本文明が西欧文明化したわけではない。日本文明が西欧文明との接触で、伝統を維持しつつ発展したのである。
(令和3年1月1日)
神田 淳(かんだすなお)
高知工科大学客員教授著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |