3月11日午後2時46分頃、東北地方三陸沖を震源とするマグニチュード(M)9・0の巨大地震が発生した。宮城県で震度7を記録するなど、国内観測史上最大のもので、東北から関東にかけて震度5以上の強い揺れが各地を襲った。また、この地震の直後に10mを超える巨大津波が発生、青森県から千葉県までの太平洋側の地域を襲い、未曾有の大災害をもたらした。この東北地方太平洋沖地震(東日本大地震)と大津波による被害は、同27日現在、死者1万804人、行方不明者1万6244人、負傷者2776人となっている。
防衛省・自衛隊は地震発生直後に、災害対策本部を設置。北澤俊美防衛大臣の指示発出や宮城県など各県知事の災害派遣要請を受けた自衛隊は、直ちに陸自東北方面隊を主力に災害派遣部隊を被災地に派遣、救助活動を開始した。同14日には、東北方面総監を指揮官とする10万人規模の陸海空統合任務部隊を編成、かつてない大きな規模で孤立者の捜索救助や物資の輸送などの活動にあたっている。また、初めて即応予備自衛官らが招集され、被災者の生活支援任務に就いている。
一方、損壊した東京電力福島第1原子力発電所では、陸自中央即応集団が主力となって東京消防庁などと協力しながら放射性物質の拡散を防ぐため放水などの作業を行っている。
東日本大地震に対して、米軍が1万8000人を超える人員と艦船約20隻、航空機約140機で「オペレーション・トモダチ」と題する救援活動を展開、また、中国、韓国が初めて救助隊を派遣するなど、130以上の国や地域から物心両面での支援が寄せられている。
物資輸送は自衛隊に一元化
東日本を襲った大地震と津波は交通にも爪痕を残し、支援物資の輸送に大きな影響をもたらした。道路の寸断や瓦礫により車両の通行が困難になったことなどから、水や食料のほか毛布などの生活必需品の支援物資が被災地に届かない、もしくは一部の避難所に集中するといった状況が続いた。また、津波による被害が甚大で広域であったため、想定よりもはるかに多くの避難所ができ、どこに被災者がいるのか把握が難しい事態も発生した。「支援物資が足りない」「孤立化している」という声が上がる中、政府は3月15日、救援物資が効率的に被災者にいきわたるよう物資の管理・輸送を防衛省で一元的に行うことを決定。市町村や企業、団体からの提供物資を都道府県が窓口となり、指定された駐屯地・基地に集め、自衛隊が現地対策本部と調整して被災地に輸送する態勢を整えた。
また、物資輸送中のヘリなどが空から状況を把握し、孤立化した被災者を発見した場合には、救助したり救援物資を投下するなど柔軟に対処した。石巻市で約400名が孤立化した地域が発見され、海自ヘリが食料などを運んだのもその例だ。また、同16日には被災地の燃料不足に対応するため、駐屯地・基地に備蓄されているガソリン・軽油などの燃料の一部放出が決まり、空自松島基地からガソリンと軽油を宮城県の東松島市、石巻市へ向けて輸送を開始した。防衛省・自衛隊では、被災地における物資不足解消に向けて全力を挙げている。
〈海自派遣活動〉
海上自衛隊では震災が起きて10分後にP-3Cによる状況偵察を開始し、その後も各基地から護衛艦や哨戒機、救難機などが順次投入され、捜索・救難活動のほか物資や人員の輸送を実施した。海上自衛隊からの派遣部隊は隊員約1万6000名、艦艇約50隻、航空機約100機に上る。
発災当日は八戸航空基地の体育館を開放して被災者約770人などを収容したほか、大湊地方隊が緊急物資として青森県六ケ所村、風間浦、三沢市、むつ市に対して毛布3000枚と缶詰1000個を送った。翌12日からは各基地から出港した護衛艦部隊が宮城県沖に到着し、捜索・救難活動が本格化させた。
第2航空群のUH-60Jヘリは同12日、青森県八戸港に停泊中の地球深部探査船「ちきゅう」から小学生ら52人を救出し、八戸航空基地まで移送した。小学生らは、前日に「ちきゅう」内部を見学している最中に地震に遭い、津波の影響を避けるため接岸を見合わせ、船内で一夜を過ごしていた。 同13日には、福島県双葉町の沖合約15kmの海上で漂流していた男性を護衛艦「ちょうかい」が発見した。この男性は津波によって流された自宅の屋根一部に乗って、丸2日間救助を待ち続けていた。「ちょうかい」乗員は内火艇を下ろし、11時12分に男性を救助。その他、海上自衛隊の捜索・救難活動によって、3月28日現在で896名が救助されている。
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