1937年日本軍は日中戦争の上海戦で敗走する中国軍を追撃し、12月首都南京を陥落させた。このとき、日本軍が南京市民を大量虐殺したとされる、いわゆる「南京大虐殺」が、近年では史実のように定着した感がある。欧米の百科事典にも史実として記述され、中国は南京大虐殺キャンペーンを国内外で展開し、ユネスコの世界記憶遺産にも登録された。日本人も「南京大虐殺」を事実と信じる人が多数となった。
しかし私は、南京虐殺に関する書物を読み、史実を研究してきたが、いわゆる「南京大虐殺」は歴史的事実ではないとの確信をもつに至った。
日本軍による南京攻略戦の最中、南京市民のほぼ全員が市内(城内)の安全地帯に避難していたが、城門陥落後、城内に入った日本軍が安全地帯にいる市民を攻撃することはなかった。大量の中国兵が軍服を脱ぎ捨てて安全地帯に潜伏したため、12月14日より日本軍はこれを摘発する(兵を民から分離する)城内掃蕩作戦を実施した。その結果安全地帯で起きたことを知るには、南京安全地帯国際委員会が日本大使館に抗議する意図で提出した『南京安全地帯の記録』が参考になる。この記録によると、1937年12月13日から1938年2月7日まで、殺人事件は25件あり、そのうち目撃された事件はわずか2件で、その他はすべて伝聞だった。市民の大量虐殺など起きていないことがわかる。
また、日本軍が南京に接近したとき多くの南京市民が逃げ出したが、20万人が残留し、日本軍の南京城攻略開始から城内掃蕩期間終了を含む11月下旬より12月21日まで、20万の人口数は変わらなかったことが公的文書からわかっている。そして翌年1月14日の公的文書には、25万人まで人口が増加したと記録されている。これからも大量の市民殺戮などなかったことがわかる。
ではなぜ、4万人とか30万人の大虐殺説が生まれたのか。それは日本軍が行った城内掃蕩戦に発生する。掃蕩戦は安全地帯に潜伏する中国兵を摘発し、投降兵を収容し、不穏な兵士を処刑し、隠匿された武器を押収する。日本軍は掃蕩戦を行い、6千5百名の中国兵を処刑した。この処刑が欧米人の批判の的となった。ある欧米人は軍服を脱いで安全地帯に逃げ込んだ中国兵を元兵士(=市民)と見なした。また、あるアメリカ人記者は中国人兵士が処刑されたと書かずに、意図的に、中国人が残虐に処刑されたと書いた。また、南京の有力な欧米人は国民政府の中央宣伝部と深くつながっており、日本軍の残虐行為を誇大に宣伝した。こうして軍服を脱いで安全地帯に潜む中国兵の大量処分が、市民の大虐殺のように宣伝された。
しかし当然のことながら、軍服を脱いだ中国兵の摘発、処刑は戦時国際法違反ではなかった。南京では中国軍の組織的な降伏はなく、中国兵の多くが安全地帯に潜伏し、抵抗を継続していた。武器を持って潜伏した中国兵は摘発された後もなお武器を隠し持つ者もあり、いつまた反撃してくるかわからない。油断のできない戦闘状態にあった。
国民政府の公式資料、公式記録で南京大虐殺説は否定されていた。南京安全地帯国際委員会も、日本軍の行った中国兵処刑を戦時国際法違反と見なしていなかったのである。
南京大虐殺説が成立したのは、戦後の南京での国民政府戦犯軍事法廷と、東京での極東軍事裁判においてであった。
(令和3年12月15日)
神田 淳(かんだすなお)
元高知工科大学客員教授。著作に『すばらしい昔の日本人』(文芸社)、『持続可能文明の創造』(エネルギーフォーラム社)、『美しい日本の倫理』などがある。 |