防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース 992号 (2018年12月1日発行)
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ノーサイド
北原巖男
中野先生

 中野先生は僕の中学校の恩師。ホームルームでの口癖は、「いいか、真っ暗闇なところでも何がどこにあるか、整理整頓して分からなければだめだ」
 長野県松本市に居住、95歳を過ぎてなお矍鑠として悠々自適の毎日だ。
 先生は、海のロマンに魅せられた日本郵船の機関士だった。戦時中、帝国海軍少尉として軍務に服し、陸軍徴用の輸送船に乗り組み幾度となく南方を往復。二度の撃沈・沈没を経験、真っ暗な油の海から奇跡的に生還。その後も何度も南方への輸送任務に就いた。戦争末期には長崎にて被ばく。戦後は引き揚げ業務に邁進。仁川にたどり着いた人々を祖国に運ぶため乗り組んだ船は、米国から提供された民船だった。「惨めだったねぇ」中野先生は呟く。もはや日本に残る輸送船はほとんどなかったのである。
 これはそうした海の男の一つの戦記である。
 中野先生は、海の無い長野県出身。海にあこがれ東京高等商船学校機関科に進学。卒業と同時に日本郵船に就職。しかし時は戦争真っただ中。2か月後には海軍少尉に任ぜられた。当時は、民船の多くが戦争対応のため海軍もしくは陸軍に徴用されていた。
 中野先生は、徴用船で何度も沖縄や台湾、海南島、マニラ、シンガポール等の南方に兵員や補給物資を運んだ。何隻かの同型の船で船団を組み、周囲を海防艦等の小さな軍艦数隻が護衛して航行した。
 南方に送る兵員を満載して門司港を出港したとき、港近くの丘の上に黒山の人々が懸命に国旗を振っている姿が見えた。胸が熱くなった。兵隊は輸送船の行く先を知らない。しかも重装備の兵隊全員が船室には入れきれず、銃を持ったまま足の踏み場も無いほどギッシリとデッキに座っていた。何度も秘密のジグザクザク走航を繰り返して南下を続け、兵員の半分はマニラまで、残りの兵員はシンガポールまで輸送し、彼らを見送った。
 そしてシンガポールから数隻の同型船と帰途に着く。軍艦の護衛無しでの出航だ。そのとき中野先生が動かしていた船は「勝鬨丸(かちどきまる)」。もともとは1941年12月8日の太平洋戦争開戦直後に日本軍に拿捕されたアメリカの輸送船「プレジデント・ハリソン号」だ。「勝鬨丸」と名前を変えて日本郵船に引き渡されていた約1万トンの大きな船である。
 戦略物資のボーキサイトを満載し、日本で働かせるためと聞いていたオーストラリア兵の捕虜も詰め込まれていた。上半身裸のままの姿には同情を禁じ得なかった。乗組員がタバコを美味しそうに吹かす様子をじっと見つめていた。さらに船には若い女性たちも沢山乗っていた。久しぶりに帰国する従軍看護婦の皆さんだった。
 マニラ沖で日本に帰る3隻と合流。途中から護衛につく軍艦との邂逅地点は海南島のはるか沖合。夜。予定の時刻を過ぎても軍艦は来ない。無防備状態でひたすら待つ。ようやく2隻の軍艦が現れた。
 しかしこの軍艦は、とんでもないものを連れていた。アメリカの潜水艦だ。潜水艦は、昼間は海深く潜航したまま2隻の尾行を続けて来ていたのだ。
 そしてその時は来た。23時頃、突然の轟音。機関室のすぐ後ろに魚雷が命中。あの炸裂音は今でも忘れることが出来ない。匂いもだ。船内は真っ暗になった。
 当時、中野先生は当直士官として機関室にいた。もう少し魚雷が手前に当たっていたら、今の先生は無い。爆風を防いでくれた隔壁のある船だったことも幸いした。
 どのくらい時間がたったことだろう。真っ暗闇に船長の声が響き渡る。「私から最後の命令である。総員直ちに離船せよ。最後の命令だ。直ちに離船せよ」
 中野先生は、部下の機関士達に退避を命じてから自室に入る。常日頃からの整理整頓が効いた。どこに何があるか手に取るように分かった。救命胴衣を着け、最後に船底から真っ暗闇の階段をいくつも駆け上った。
 「勝鬨丸」の船首は上向き、どんどん急傾斜となる。もうだめだ。真っ暗な海に飛び込んだ。噴出した物凄い重油の海。今まで元気に動いて来た船が沈む。目の前で消えた。
 このとき大部分の日本船が沈められた。
 人々の騒然とした叫び声も、いつしか聞こえなくなって行ったという…
 平成の時代、最後の12月です。

北原 巖男
(きたはらいわお)
元防衛施設庁長官。元東ティモール大使。現(一社)日本東ティモール協会会長。(公社)隊友会理事

館山航空基地65周年記念行事
 第21航空群(群司令・小俵和之海将補)では、10月6日、館山航空基地開隊65周年記念行事を実施した。館山航空基地は昭和5年の海軍航空隊設立からの歴史を有し、海上自衛隊として、昭和28年に館山航空隊を開設して以来、65年を迎えた。当日は館山自衛隊協力会会長である館山市長をはじめ、部内外から多数の来賓と隊員を合わせ約850名が集い65周年の節目を祝うとともに、盛大に式典が執り行われた。
 群司令は「これまでの諸先輩の不動の信念と努力が、今日の基地の発展を支えてきたように、我々はこの大きな変化の時代に、新しい第21航空群館山航空基地としての歴史と伝統を築き、さらなる精強な部隊に向けて前進することを誓う」と抱負を語った。
 式典後、哨戒ヘリSH-60J/K3機による編隊飛行やUHー60Jによる救難展示も行われ、日頃の訓練の成果を示した。
 その後の祝賀会では、先日テレビ取材を受けた館山航空基地隊給養班作成の"館空基カレー"や地産地消の料理が振る舞われたほか、安房高校書道部による65周年をイメージして揮毫した作品の展示と、白百合幼稚園卒園生による和太鼓演奏が行われた。

海保との連携強化
<第22航空群>
 第22航空群(群司令・岡田真典海将補=大村)は、10月28日、海上保安庁との共同、連携要領の強化、確立を図ることを目的として、鹿児島湾で行われたJCGクルーズ2018に参加した。
 JCGクルーズ2018は、第10管区海上保安本部が海上保安制度創設70周年を記念し、鹿児島湾において広報活動を兼ねて、銃器・薬物密輸容疑船捕捉制圧訓練や漂流者救助、離着船訓練等の海上総合訓練を実施するものであり、第10管区海上保安本部のほか、海上自衛隊、鹿児島県警察本部及びヘリコプターを保有している民間病院など、船舶8隻、航空機4機が参加した。
 第22航空群からは鹿屋航空基地に所在する第22航空隊鹿屋航空分遣隊(隊長・鍋谷尚哉3海佐)のUH-60Jが参加し、第10管区海上保安本部巡視船「とから」に乗船中の想定要救助者をホイストにより揚収、医療機関に搬送する訓練を実施した。
 第22航空群は「今後も多様な事態に何時如何なる時でも対応できるよう海上保安庁との共同、連携の強化を図っていく」としている。

徳島航空基地60周年記念行事
 9月29日、海上自衛隊徳島教育航空群(群司令・今泉一郎1海佐)では、徳島航空基地の開隊60周年に伴い、記念式典及び基地の一般公開を行った。
 当日は、台風24号の影響により、雨が降り続く天候となったが、地域住民のみならず徳島県内外から約1600名の観客が徳島航空基地を訪れた。
 イベントでは、祝賀飛行及び展示飛行が、悪天候のため中止となったものの、一部を除いた航空機の地上展示や室内で計画されていたイベントについては、予定どおり行われた。
 記念式典では、群司令が式辞において、「我々が伝統を受け継ぐ海軍航空隊は、発足から僅か30年で消滅したが、今や我々はその倍となる60年の歴史を刻んでいる。だからこそ変化を恐れ現状に甘んじるようなことは決してあってはならない。かつて、ここ徳島飛行場で国防のために死力をつくした彼らに対して胸を張っていられるよう、ともにまい進しよう」と所信を述べた。また、招待者からも、多くの祝辞が述べられたほか、鳴門市うずしお観光協会の鳴門うずしお大使である楠本亜衣莉さんが、1日群司令に任命され式典に華を添えた。
 基地一般公開では、TC-90を始めとする8機種の航空機が地上展示されたほか、シミュレーターの体験、ターミナルレーダーの見学等、多くのイベントが行われ、多くの航空ファンや家族連れの観客が隊員との交流を楽しんだ。また、徳島航空基地では初めての試みとなる、地元中学生のダンスチームのショーや吹奏楽部等の演奏、地元高校生による食品や雑貨の模擬店も催され、中高生の高い関心を集めていた。

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