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自衛隊ニュース   884号 (2014年6月1日発行)
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予科練戦没者慰霊祭ゆかりの地で開催
武器学校
七つボタンは桜に錨
陸海初の共同献花下士官の情報を基に

 5月25日、「第47回豫科練戦没者慰霊祭式」(財団法人海原会主催)が陸上自衛隊土浦駐屯地(司令・宮本忠明陸将補)武器学校内の雄翔園でしめやかに執り行われた。座っているだけでも汗がじっとりにじむような初夏の暑さの中、昨年よりも20人程多い約330人の同窓生や遺族、同伴者、さらに宮本司令、第7航空団司令・深澤英一郎空将補、教育航空集団司令部幕僚長・阿部浩1海佐等が来賓として参列した。
 式は午前10時25分陸上自衛隊施設学校音楽隊の演奏が会場の雰囲気を和ませる中、海上自衛隊下総教育航空群所属のP—3C対潜哨戒機が轟音を立てながら上空に飛来。日本赤十字社直轄の赤十字飛行隊2機による「日の丸飛行隊」がそれに続いた。参加者は、勇ましい慰霊飛行を行った3機が、薄雲から顔を覗かせる太陽の方向に消え行くまで、手を振って見送った。
 土浦駐屯地は元々、大正11年に霞ヶ浦海軍航空隊水上班として開隊され、海軍飛行予科練習生(予科練)の教育訓練を終戦まで行ってきた予科練ゆかりの地だ。今回、陸・海下士官達が海原会への情報提供を行う事により念願の海上自衛隊下総教育航空群の協力が初めて実現した。陸・海共同で式典をサポートする事となった意義は大きい。
 そのひとつとして、P3—C慰霊飛行の他に下総教育航空群隊員10人による儀仗が行われた。祖国のためにその身を捧げた予科練生が飛んだ空へ放たれた弔銃の銃声は、きっと彼らに届いたことだろう。引き続き、陸自武器教導隊員と海自下総教育航空群隊員が後方から会場に入ってきた。2人が同じトーチを握り共同献火を行うその姿は象徴的であった。
 海原会理事長、堺周一氏が「予科練魂は次の世代まで伝えます」と力強く式辞を述べ、続いて行われた献花では、限られた時間の中、出席者の列が途切れることなく続いた。献花台にヒナギクをそっと置き、「予科練二人像」を見あげながら戦没者への思いを馳せる参列者の姿が印象的であった。
 来賓挨拶に立った宮本司令は「今後も戦没された予科練の方々の英霊顕彰をするこの地を大切にし、自衛官として国を守る使命感をより強いものにしたい」と述べた。
 続いて遺族代表として、予科練乙飛七期、故西澤廣義海軍中尉の甥にあたる西澤政充氏が「いずれ自分もおじのもとに行くが、その時おじたちが命と引換えに守り抜いた日本の今を誇らしげに話す事ができるでしょうか。予科練同窓生の皆様は生きたくても生きられなかった多くの戦没者の分まで永生きして下さい。海原会の皆様、自衛隊関係者の皆様、地元阿見町町長をはじめ町民の皆様に心から感謝申し上げます」と式典関係者への感謝を交え、述べた。
 その後、「偲ぶ詩朗読」、全員での「若鷲の歌斉唱」、奉納行事と続き、海原会の酒井省三副理事長の閉式の辞で散会となった。
 閉式後、予科練同窓生(松山海軍航空隊)で戦後医師となった兵頭春夫氏(86)は「今、日本は世界から立派な国だと言われる。しかし、それに応え続けるためには戦前のような、指導者が誤った方向に導かないようにしなくてはいけない」と、失った戦友の話に時折言葉を詰まらせながら、穏やかに語った。

ミニ解説「予科練」
 「海軍飛行予科練習生」の略称および制度のこと。旧海軍が昭和5年、若いうちから厳しい教育訓練を施し熟練の搭乗員を育成する目的で設けられた。当初は高等小学校卒業者で満14歳以上20歳未満の少年を採用していたが、更なる航空戦力の拡充のため甲種、乙種、丙種、更に昭和18年から乙種(特)飛行予科練習生という制度を設けた。
 また当初教育の場としていた横須賀海軍航空隊では手狭になり、霞ヶ浦海軍航空基地隊に移動、翌年新設された土浦海軍航空隊がその担当となった。その後も要員拡充のため全国で航空隊が開隊された。
 卒業した練習生は下士官として戦績を上げるが、太平洋戦争の状況が悪化するにともない敢行されたいわゆる「特攻」の搭乗員として多くの命を落とした。昭和20年9月には予科練教育は凍結され、各予科練航空隊は解隊した。


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