防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2011年5月1日号
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被災地から隊員の声
懸命に活動続ける
復旧・復興のために
捜索活動に従事して 陸士長 板橋孝之
8普連(米子)
 「〜ミリシーベルトを超えたらまずい」「香水は使うな、フラッシュバックするぞ」「行方不明者発見、毛布持ってこい」「今日も乾パン、缶飯か」「また揺れた…」
 私は今、福島県いわき市でテレビを見た以上の光景を体の五感全てで感じています。目の前で毎日繰り広げられる全ての事を受け止め、次の任務に邁進するという当たり前の事が今の私達若い隊員にとっては何より難しく大変な事です。
 今、この災害派遣任務を実施している中で、隊員一人ひとりが色々な事を感じながら行っていると思います。私は任務中、瓦礫の中から楽しそうな家族などの大切な思い出が詰まっているアルバムが泥だらけになって出てくると、いたたまれない思いでいっぱいになります。家の方が帰ってこられた時、まず写真などを探されている光景をよく見ます。だから出来るだけ集めておくように心掛けています。
 私は一人でも多くの行方不明になられた方を捜しだし、被災者の救援と被災地の復興の為に期間はいつまでになるか分かりませんが気持ちをしっかり持ち、最後まで任務を完遂します。
被災者が喜ぶ活動を 3陸佐 武田信彦
6師団(神町)
 3月26日、仙台市内でも薄っすら雪が積もり、被災地には大変厳しい朝となった。発災から2週間余りが経過し、被災地にも少しずつ復興の兆しが見えてきている。水道が出るようになり、電気がともり、町を走る車の量も多くなってきた。その一方、避難所ではまだ大変多くの方々が避難生活を余儀なくされ、また、我々の行方不明者の捜索活動は依然として続き、毎日何体ものご遺体を収容している。現在第6師団は、第1特科団、第1高射特科団、需品教導隊等の新たな部隊の配属を受け、約6000名の態勢で行方不明者の捜索活動、民生支援活動を実施している。また、初めて即応予備自衛官、予備自衛官が災害招集を受け、第6師団にも同23日、約120名の即応予備自衛官、予備自衛官が配属され、避難所への支援物資の輸送や簡易沐浴場(炊事車で湯を沸かし、天幕の中で頭などを洗ってもらう軽易な施設)の開設・運営を行っている。捜索活動は、重機を使い慎重かつ丁寧に瓦礫を除去しつつ、また、大量の水に冠水した場所では、ポンプを使い排水を行いながら進められている。民生支援は、給食・給水、巡回医療、物資輸送等が行われているが、先日石巻市内(石巻消防本部前の広場)に野外入浴所が開設され、お風呂を待ちわびた多くの方々が連日訪れている(1日約1200名の方々が入浴)。師団では、お風呂の提供ばかりではなく、遠方の避難者の方々は大型バスで送迎するなど利用の便に努め、また、巡回診療はなかなか手の届かない、小規模の避難所、離島等への診療も順次行い、少しでも被災者に喜んでもらえる活動に着意し、師団長以下全隊員が被災者の方々のために何が出来るかを考え日々活動を実施している。
小さなカメラマン 3陸曹 森 敏郎
13旅団(海田市)
 現地につくと、町の姿は跡形もなく瓦礫の山が続くばかりだった。そんな中で私は広報要員として捜索活動、給食・給水・入浴支援など隊員たちの活動状況を撮影(記録)している。派遣から何日かが過ぎ、私自身も疲れを感じはじめではいましたが、被災者の方々の想いを胸に、その気持ちを隅へ追いやり撮影を続けた。
 向陽中学校(福島県相馬市内)での入浴支援の様子を撮影しようと利用者が来るのを待っていた。すると、一人の女の子が天幕から顔をだしてこちらを見ている。カメラを持っていることに気づくとポーズをとってくれ、屈託のない笑顔を見せてくれた。「私もカメラでとってみたい」と近づいてきて、カメラを構えると周りにいた隊員にレンズを向け楽しそうに笑った。少ししてから姉妹なのか、もう一人の女の子がお風呂から出てきて私にも撮らせてと近づいてきた。2人とも災害にあって恐怖や悲しみを味わってきただろうに、最高の笑顔を我々に見せてくれた。
 救助活動に来ているはずの我々を救ってくれる笑顔だった。そして、この笑顔を避難所で生活している地域の方々や災害派遣活動を続けているすべての隊員、現地での活動に携わることのできない隊員や、何とか力になりたいというたくさんの人々に見せてあげたいと思った。
 自分は、まだまだ小さなカメラマンだが、現地での活動がかなわない人たち、被災された多くの方々の復興への光明のためにも、現地での活動をしっかりと伝えるために撮り続けたいと思う。
チカラを届けたい 3陸曹 奧 陽介
35普連(守山)
 東日本大震災が起こり、私が所属する第35普通科連隊は災害派遣のため直ちに一路東北地方に向け、守山駐屯地を出発しました。
 私はこの派遣に、現在の職務である連隊広報官として参加することとなり、3月12日に宮城県名取市に入り活動を開始しました。
 津波で壊滅的な被害を受けた現地は、目を覆いたくなるような悲惨な光景ばかりで、当初、私はカメラを抱えながら何を撮影して良いのか判らない状態でした。一方で、必死に捜索活動をしている仲間達を見ては「撮影ではなく行方不明者を捜索したい」という強い衝動と焦りの様な感覚に駆られていました。
 しかし、震災発生から数日後、市内の避難所に出向いた時の事でした。多くの被災者の方々から、撮影をする私に対しても「自衛隊さん、本当にありがとう」「温かいごはんをありがとう」といった言葉や手紙を頂きました。そんな時、笑顔でおにぎりをほお張る子供達の姿を見て「この光景を、泥に塗れて活動している仲間達に届けたら必ず心の支えになる」と気付き、かつ確信しました。
 また、被災された方々に対して、過酷な状況下で隊員達が一丸となり懸命に活動している「真摯な姿」を伝えることを通じ「我々がいる。みんなで乗り切ろう」というメッセージを届けたいと強く思うようになりました。
 隊員、被災者、そして御家族や我々を応援してくれる多くの方にチカラを届けること、そして心の交流の支えとなるのが広報官であり、これらの任務を全力で遂行することが、その使命であると身をもって再認識しました。
 私はどんな困難に直面しても、35連隊の隊員として、そして広報官として少しでも復興の手助けになれるよう、精一杯頑張ります。

思い出のアルバム 持ち主の元に届く
仙台駐屯地
 東日本大震災後のある日、仙台駐屯地業務隊(隊長・岸良和典1陸佐)司令職務室に、東北補給処広報係小野里知子2曹から1冊のアルバムが届けられた。
 地震による津波の影響でアルバムは自動車メーカー工場に漂着し、工場に勤務する自衛隊OBがアルバムの中に自衛官の入隊式らしき写真を発見、知人がいる補給処に届けた。届け出を受けた小野里2曹は司令職務室に相談に訪れ、臨時で勤務していた東北方面後方支援隊隊員の蛭川昌明2曹が、1枚の写真の中に知人の隊員がいるのを発見した。その隊員の所属する部隊に問い合わせるなどして持ち主と連絡を取り、持ち主のいとこがアルバムを受け取りに来訪した。持ち主については、津波により父親が亡くなられ、また自宅が壊滅したため、そのアルバムだけが唯一残ったという。アルバムを受け取った持ち主のいとこは、「全てを失い、彼(アルバムの持ち主)には亡くなった父親の写真さえありませんでした。彼にとって唯一の励みになるでしょう」と深々と頭を下げ、お礼を述べた。
 仙台駐屯地では、「震災による緊張が続く状態の中、思い出がいっぱいのアルバムを持ち主に届けることができ、司令職務室内に安堵の空気が漂った瞬間だった」と話している。

援護担当者が見た爪跡
宮城地本霞目援護班

 地震が起きたその日は、3月異動の方々の宮城地域援護センター送別会が予定されていて、私も送られる一人でした。
 数年前から非常に高い確率で発生すると予想されていた宮城県沖地震が、遂に我々を襲ってきました。
 我々宮城地本の援護担当者は、発災当初から連携企業の被災状況・安否確認に奔走しました。
 折しも、3月は、任期制隊員が厳しい就職活動の末、やっとの思いで内定を頂いていただけに、その企業の被災と内定取り消しが無いことを祈りました。確認が取れない状態が1週間以上続き、ようやく企業の採用担当者を確認できた時には、無事で良かったと涙があふれました。しかし、お見舞いの言葉の後で内定について確認したところ、やはり「申し訳ありません…」と言われました。逆にこのような状況の中質問した私の方こそ「ごめんなさい」と言いたい心境でした。結局、内定は頂いていたものの、企業等の状況から2名は就職を断念し継続任用となりました。そのうちの1人から「復興したら御社に就職したい」との強い意志を伝えたところ、採用担当者からは、「ぜひお願いします」との温かい言葉を頂き、逆にこちらが元気を頂きました。
 現在もなお、任満や定年を控えながら災害派遣に従事中である多くの隊員のためにも、我々援護担当者は前を向いて元気に援護活動をやっていく所存です。


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