防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2008年12月15日号
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資料館来館者5万人達成!!
《防大》
盛大に記念式典
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 防衛大学校資料館は11月12日に、平成17年3月14日の開館以来、3年8ヶ月で来館者数5万人を突破した。
 達成に至るには11月8、9日に開催された開校記念祭の影響が大きく、9日の記念祭終了時のカウントは49974名だった。
 いよいよ5万人達成の瞬間を迎えるにあたり、職員一同が固唾を呑んでその時を待っていた。当日は埼玉県に所在する航空自衛隊入間基地の協力団体「入間航友会 坂戸支部」43人の防衛大学校ツアーが予定されており、カウント数からいっても確実にこの中から達成者が出るのは分かっている状況だった。午前11時、ツアー一行が来館。カウンターで数え、いよいよ49999名!そして幸運の50000人目の方は!?ツアー参加者43名中、唯一の女性 関口節子さん。担当者から「おめでとうございます。あなたで5万人達成です!」の一言にツアー一行からは歓喜の声が上がった。
 早速、達成記念セレモニーが行われ防衛大学訓練部長 佐々木海将補から記念の盾を、学生部長 井口1空佐から自衛隊グッズを、併せて資料館の設立に尽力された田中 元教授から花束がそれぞれ関口さんに贈呈され、記念撮影が実施された。
 5万人目の幸運を射止めた関口さんは「校内及び資料館の綺麗さに驚きました!最高の設備の中で素晴らしい教育を身に付けられる学生さん達の活躍を祈念し、機会があれば再度来館してみたいです」と感動の面持ち。
 資料館も新たに初代校長を務めた槇氏を紹介する「槇記念室」も併設されたことから、新たな資料館として10万人達成の目標に向けて職員一同決意を新たにしている。
 見学等についての申し込み先は、防衛大学校資料館事務室(電話046・841・3810内線2920、2921)まで。

修親刊行50周年を祝う
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 昭和33年11月に創刊された「修親」は、平成20年10月号で50周年を迎えた。修親刊行50年の事業として記念増刊号を発刊するとともに、11月28日、グランドヒル市ヶ谷で祝賀会を開催した。祝賀会には、全国各地から駐屯地修親会の代表者をはじめ修親会連合本部長の折木良一陸幕長、修親刊行委員長の関口泰一陸幕副長、陸幕等勤務者、歴代陸幕長、修親に寄稿した部外有識者ら約180人が出席、盛大に50周年を祝った。
 最初に、関口委員長が修親の歴史を振り返るとともに今後とも「部隊の中心的存在として活躍を」と挨拶したあと、折木本部長と中村勝範氏(平成国際大学名誉学長)が順次心温まる祝辞を述べた。次いで、平成19年度多数投稿修親会の第1後方支援連隊(武野浩文1佐)、第6偵察隊(小林敦彦2佐)、中央基地システム通信隊(竹田重樹1佐)の3部隊が関口委員長から表彰された。第21代陸幕長の寺島泰三氏(統幕議長)の乾杯の音頭で懇談が始まり、出席者一同、修親会の思い出を語り合いながら今後とも一層の充実、発展を誓っていた。

トップ・オブ・ティーダ除幕式
《第5航空隊》
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 第5航空隊(司令・杉本孝幸1佐)では10月17日、「トップ・オブ・ティーダ選抜ボード」の除幕式が行われ、トップ・オブ・ティーダのメンバー18名総員の写真が掲げられたボードが、メンバー代表の冨士1尉、ボード作成者の今西2曹らによって隊員に披露され、当直室前に設置された。
 「トップ・オブ・ティーダ」とは、海自体制移行を契機とした第5航空隊独自の取り組みであり、今年6月に、2つの飛行隊の枠を超えて選ばれた、優秀な搭乗員と整備員による5空選抜チーム。これまで搭乗員のメンバーは、物量傘投下競技への参加、戦術訓練装置(OFTT)での戦術展示、さらに個人養成においても教官として活躍。また、整備員においては基地見学などで列線整備作業を展示し、高い評価を得るなど活躍している。
 除幕式では杉本司令が「誰もがトップ・オブ・ティーダたる権利を有している。今後もプロ意識と誇りを持ち、為すべき本業は何かを常に追求し、その本業に打ち込み、次は自分がメンバーに入る、という気概で職務に励んでもらいたい」と訓示した。
 トップ・オブ・ティーダは、5空全体の術科能力向上と士気高揚のため、今後も活躍の場を広げていくとしている。

彰古館往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ82>
北清事変と広島病院(5)
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 北清事変(1900)時に、廣島陸軍臨時病院で治療を受けた122名中、廣島陸軍臨時病院で亡くなられた将兵が5名います。
 これまでに、広島大学の原野昇教授が、広島に残る7基のフランス兵のお墓の調査を独自に進めており、防衛省防衛研究所図書館戦史史料閲覧室の膨大な陸軍公文書の中から、関係史料を発掘し、フランスにも赴いて子孫を探しています。
 また、彰古館の所蔵する治験記事には、死亡診断書も確認されています。
 広島に帰着した第1便は明治33年(1900)7月21日、宇品港内で砲創と赤痢によって2名が亡くなっています。残念ながらこの2名の史料は残っておりません。
 この日、サイゴン海兵第十一連隊のJ.Dorelラッパ手は、赤痢で重症のため、博愛丸に残留する予定でした。本人が他の者と同道することを強く望み、夕刻、涼しくなった頃を見計らって担架で搬送しましたが、翌朝4時、容態は悪化し、肝膿瘍で亡くなりました。
 アノイ第九海兵連隊軍曹J.Baurgeadeは、7月11日に天津で受傷しました。広島陸軍臨時病院での診断は、右腋下南部貫通銃創で赤痢も併発していました。
 腋下動脈の血管銃創であることが確認され、7月23日に手術の運びとなります。クロロホルム麻酔下で鎖骨下動脈の結紮を試みますが、ショック症状を呈し、4時間後に死亡しました。
 アノイ第九海兵連隊所属のJ.Lebean二等海兵は、負傷時の状況は不明ですが、8月6日の収容時には右側東部頭を始め、全身に及ぶ砲創ですでに危篤状態でした。15日に、全身衰弱、心臓麻痺で亡くなっています。
 赤痢による肝膿瘍で9月9日にはサイゴン第十一海兵連隊のF.Cohendy二等海兵が、9月19日には同じくF.Lelie'vre軍曹が心臓麻痺でこの世を去ったのです。
 帰還の念 祖国を遠く離れた、極東の異国に眠ることになったフランス兵に対して、広島陸軍臨時病院は、フランス式の立派な葬儀を挙行しており、彰古館には写真も残されています。
 本年6月20日、原野教授の調査で判明したF.Cohendyの子孫ジャクリーヌ・ジェルブ夫人と、無事にフランスに帰国を果たしたアントナン・ジャックマンの子孫アニー・シュロウカ夫人が、日仏交流150周年記念祝賀会で広島に招かれました。シュロウカ夫人は、ジャックマンが広島から送った沢山の手紙を、祖母から引き継いでおり、原野教授はフランスでそれらを確認していました。
 この会場で、彰古館所蔵のフランス負傷兵の写真が提示され、シュロウカ夫人は「これは私の祖父です」と一枚の写真を示したのでした。もし、広島で戦没していれば、この世に存在していなかったと、夫人は声を詰まらせました。
 子孫が見つかり、広島を来訪したこと、この場に当時の写真を提供できたこと、その中に祖父の姿を見出したこと、多くの人々の善意によって墓が守られて来たこと、種々の要素が絡み合い、この日の広島に集結した運命的な動きを感じます。
 彰古館は、歴史を保管するタイムカプセルなのかも知れません。


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