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自衛隊ニュース   2008年8月15日号
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彰古館往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
北清事変と広島病院(1)
〈シリーズ78〉
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 明治33年(1900)、中国北京で勃発した北清事変は、義和団が欧米文化を排斥するために起こした戦争で、連合8カ国(米英ソ仏独伊墺日)の一員として日本も参戦していました。
 この際に国内ではフランス傷病者を、広島陸軍予備病院で治療しています。
 現在、広島には7基のフランス兵の墓石が残っており、日仏交流150周年に当たり、調査を行いました。
 北清事変は、外地での初めての戦争である日清戦争(1894〜1895)と近代戦の嚆矢である日露戦争(1904〜1905)の中間に位置し、わが国の近代軍事史の中でも重要なキーポイントとなる戦争です。
 6月28日、日本赤十字社が建造した病院船「博愛丸」が派遣されますが、海軍大臣は各国負傷者を収容すると現地に通報します。しかし、これは政治的な根拠の無い発言でした。これを受けて、フランス海軍少将クールジョールは負傷者を博愛丸に託します。
 7月7日、日本赤十字社は2個救護班を編成し広島に派遣することを決定し、陸軍大臣に出願します。
 7月13日、陸軍大臣桂太郎は、第五師団に「外国人傷病者は、我が政府にて治療を行う。これが為、その地(広島)予備病院に収容せしむ」と下命します。
 その後、閣議決定を経て明治天皇の裁可が有り、7月16日「北清地方の事変に関し、列国軍の軍人軍属にして傷痍疾病の罹りたるものは、場合により我陸軍病院に収容し治療を加うることに致したく」と陸軍大臣・外務大臣の連名で通達されました。
 この時点で、陸軍大臣は特に陸軍軍医学校教官で、2年前に臨床用X線装置1号機を私費で輸入した医学博士の芳賀栄次郎三等軍医正と、同じく山口弘夫二等軍医、歩兵六連隊付の富田忠太郎二等軍医の3名を広島予備病院に派遣して、万全の体制を取ります。
 同時に医務局長の小池正直軍医総監が広島に派遣され、第五師団軍医部長に、外国傷病者の給養に抜かりが無いのはもちろん、慣習の違いによる食器や嗜好品に至るまで、詳細な準備を行うよう命じています。
 7月23日には陸軍大臣から外務大臣に患者取扱手続きを外務大臣に送付し、フランス公使との協定が結ばれたのです。
 フランス軍傷病者達は、6月18日から7月13日までの間、天津の仏露共同の病院において応急治療を受けていました。順次フランス軍艦ダントルカストー号に搬送された傷病兵は、日本赤十字社の病院船に収容されて広島に向かいます。
 ここに日本政府と陸軍の威信をかけた、国内初の外国人傷病者の受入れが開始されたのです。
 7月21日には博愛丸が37名、8月6日には弘済丸が21名、11日に博愛丸で57名、20日に弘済丸が2名、9月7日に弘済丸が5名の合計122名(内2名はオーストリー兵)を宇品に輸送しました。
 彰古館には、これまで知られていなかった外国傷病者の顛末記、治験記事、統計表ほか公文書と、各国戦地病院と衛生器材、広島予備病院で撮影された多数の写真が残されています。

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