防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2008年7月1日号
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日本海海戦103周年記念式典
100年ぶり「三笠」に大将旗揚げる
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 日露戦争においてロシア・バルチック艦隊を撃破した日本海海戦の103周年記念式典が5月27日、横須賀市三笠公園内にある記念艦「三笠」で海上自衛隊や在日米海軍関係者ら約300人が出席して盛大に行われた。
 式典に先立ち、当時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎大将が乗艦した際に使用していた縦2・53メートル、横3・86メートルの大将旗が披露され、約100年ぶりに「三笠」に掲げられた。(注:レプリカを掲揚塔に掲揚し、実物は掲示のみ)
 午後1時55分、先の日本海海戦において「皇国の興廃此の一戦に在り、各員一層奮励努力せよ」との指示を示すZ旗が「三笠」の前部マストに掲げられた時刻に合わせて式典が開始された。横須賀音楽隊の演奏による国歌斉唱、黙とう、三笠保存会会長(増田信行氏、代読=同理事長・佐藤雅氏)の式辞のあと、横須賀市長(蒲谷亮一氏)、在日米海軍司令官(ジェームス・D・ケリー少将)に続いて横須賀地方総監(半田謙次郎海将)が「日本海海戦から1世紀以上過ぎた今日、この国家の偉業のシンボルである「三笠」から学ぶべきものを今一度見つめ直したいと思う。また、同時に国有財産としての記念艦「三笠」の整備を預かる私どもは、この国民的遺産を末永く保存し、より多くの国民の方々に知っていただくための努力を今後とも続けていく所存である」と祝辞を述べた。
 その後式典は、主要来賓者の紹介、祝電披露が行われ無事終了した。
 引き続き横須賀音楽隊が演奏会を行い、その素晴らしい音色に出席者一同、心地良いひとときを過ごしていた。
 なお、今回の式典で、日本海海戦時に敵艦までの距離を測定するために使用されていた携帯式測距儀が英国のターレス社から贈呈された。

ヘリ体験搭乗実施
《相浦》
市民14人、自衛隊への理解深める
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 相浦駐屯地(司令・宮本修一1陸佐)は、梅雨入りを間近に控えた6月8日、西部方面隊ヘリコプター隊第2飛行隊(目達原)のヘリコプターUH―1Jの支援を受け、部外者ヘリコプター体験搭乗を実施した。
 この日は薄曇りで雨も予想されたが、搭乗者の日頃の精進が良かったのか風もなく予定どおり行なった。
 今回は、駐屯地に対し日頃から協力してもらっている部外者14人を招待し、佐世保周辺空域での飛行を楽しんでもらった。
 搭乗者は、上空から見た南九十九島・西海橋・針尾の無線塔・ハウステンボスなど美しい景色に感動、「上空からのわが街佐世保は素晴らしい景色でした。まるで名画のようで感動しました。市民と自衛隊との交流がこういう形で出来ることは大変良い事だと思います」と感想を語った。
 また、「九十九島の美しさ、我々佐世保の宝である自然をもっと大切にするため、台所のゴミなどを流さないなど、できる限りのエコ対策をしなければと改めて思いました」との声も聞かれた。
 今回、実施したヘリコプター体験搭乗を通じて、搭乗者は郷土の美しさを再認識するとともに、自衛隊に対するより一層の理解と信頼を深めていた様子だった。

STOP! 温暖化
《国分》
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 国分駐屯地(司令・岩村公史1陸佐)の駐屯地厚生センター内の委託売店では、6月2日からエコ活動を始めた。
 これは、地球温暖化防止及びゴミの削減によるゴミ処分費用を節約するためで、売店のレジ袋1枚10円、割り箸20円、弁当に入っている醤油や飾り付けは廃止、クリーニングのハンガー返納による割引制度の導入を始めた。
 隊員らは、初めとまどいを見せていたが、日が過ぎるにつれ、自分でエコバック等の袋を持ってきたり、そのまま持って帰ったりとエコ活動に積極的になってきた。また、売店には「マイ箸」も登場し、割り箸を使わずマイ箸を使用する隊員も。
 ある隊員は「今、温暖化が問題になっているが、何か自分でもやれることが無いか考えていました。袋や箸を使わないことで少しでも温暖化をSTOP出来れば」と語ってくれた。
 駐屯地では、他にエコ活動が出来ないか検討を重ねている。

150メートル道路を新設
303ダンプ中隊 訓練検閲
高い実力を確認
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 北部方面施設隊(隊長・浅見憲司1佐)は6月10日から12日までの間、南恵庭駐屯地及び上富良野演習場において、第303ダンプ車両中隊(中隊長・木村1尉)に対し『所要の施設器材の支援を受け、補給幹線の維持・補修に任ずるダンプ車両中隊の行動』について、訓練検閲を実施した。
 検閲に先立ち、検閲官として「指揮官は任務及び状況に応じた指揮・運用を実施せよ」「先行的な作業見積を実施せよ」「隊員の基礎動作及び部隊の基本的行動を徹底せよ」「安全管理に万全を期せ」の4点を受閲部隊に要望し、南恵庭駐屯地において隊容検査を実施した後、上富良野演習場への前進をもって状況を開始。受閲部隊人員49名、車両24台の編成・装備をもって、昼夜連続で延べ271台、1355立方メートルのダンプ運土を実施するとともに、施設器材の支援を受け約150メートルの道路を新設した。
 検閲終了後の講評で、検閲官は「中隊長及び各級指揮官の指揮、部隊の基本的行動及び隊員の基礎動作を評価項目として実施したが、所望の時期までに任務を完遂し、第303ダンプ車両中隊の高い実力を確認することができた」と講評を述べた。
 検閲は、天候にも恵まれ、第303ダンプ車両中隊は一件の事故もなく任務を完遂し、訓練検閲を無事終了した。

部隊 歴史を訪ねて
連隊と「満州事変」の繋がり
33普連4中 2尉 田中康嗣
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 昭和6年9月18日10時20分頃、関東軍の虎石台独立守備隊の1コ小隊が奉天の北部の南満州鉄道を爆破し、これを中国側の張学良の軍による破壊工作として、関東軍は直ちに満州の占領行動に移行し満州事変が勃発した。政府は速やかに臨時閣議を招集し、当初、外交交渉による解決或いは事変の不拡大を画策したが、関東軍参謀が独断で戦線を拡大させ、約5ヶ月で満州全土を占領した。また、関東軍は軍事行動と並行して、満州民族の新国家樹立を推し進め、昭和7年3月1日、清朝最後の皇帝、愛新覚羅溥儀を皇帝に招聘して満州国の建国を宣言した。3月12日、犬養毅内閣は「満蒙は中国本土から分離独立した政権の統治支配地域であり、逐次国家としての実質が備わるように誘導する」と閣議決定し、関東軍の独断行動を追認することになった。その後、昭和8年5月、塘沽協定が中国政府との間に成立し、満州事変は終結を見た。
 事変の背景としてまず中国側の排外思想がある。中国は清王朝の頃から世界列強に扶植され続け、不平等条約を結ばされており、国権の回復は中国人民の最大の悲願であった。この排外機運に乗じて、蒋介石率いる国民政府は昭和3年6月、北京に入城し、北伐を完成させるとともに不平等条約の破棄を一方的に宣言した。また、満州一帯を支配していた張学良の軍閥は、父張作霖の爆殺等を理由に、国民政府の統制下に入ることを表明して、当時満州に駐留していた日本軍(関東軍)と完全に決別した。
 一方、日本側の背景としては経済的な要求があった。日本は、辛亥革命後の荒廃した中国における自国民の保護を理由に、満州に関東軍約1万名を駐屯させていた。昭和3年に中国から日清通商条約の一方的な破棄を通告され、昭和4年の世界恐慌では、世界列強が排他的なブロック経済体制化を進めるに至り、資源に乏しく、自由貿易に経済の軸足を置く他ない日本は極めて深刻な影響を受け、大陸における権益の確保を国策として選択せざるを得ない状況に追い込まれた。そういった背景の下に、満州において排日政策を採り、逐次、険悪の度を深める、張学良の軍閥にどう対処するか、関東軍は周到綿密に準備し、万一に際して違算のない行動がとれるように期していた。
 そして、昭和6年9月18日、ほとんど歴史の必然性の上に日中両軍は衝突したのである。
 さて、歩兵第三十三聯隊も満州事変そのものとは直接的に関与はしていないが、事変に前後して二度、満州に駐箚している。
 第1次満州駐箚では、昭和4年2月に聯隊は師団から満州派遣の正式命令を受領し、3月には先発隊を、本隊も4月には鳥羽港から奉天へ向け前進を開始した。当時の満州は、比較的平穏であり、銃火を交えるような事件もなく昭和6年4月、会津若松から来た歩兵二十九聯隊に任務を引き継ぎ、帰国した。この東北の精鋭こそが、満州事変の主力部隊として活躍することになる。
 塘沽協定締結後の昭和9年4月から聯隊は再度、満州の防衛に任じられる。この第2次満州駐箚間、聯隊は昭和9年に第1次秋季大討伐、昭和10年に第2次秋季大討伐をそれぞれ実施した。当時、満州にはすでに組織的に行動する軍閥は存在しなかったが、軍閥の残党や抗日分子が、民家を襲撃して、所有物を強奪する事件が多発していた。そういう匪賊を根こそぎ排除しようと行われたのが、これらの大討伐である。第2次駐箚においても、大きな戦禍に巻き込まれることはなく、聯隊は昭和11年6月帰国した。
 聯隊は、満州において華々しい成果を挙げることはなかったが、冬は容易にマイナス20度を超える酷寒の地で、内地と変わらぬ厳しい訓練を実施し、与えられた任務を整斉と遂行した。
 余談であるが、第1次満州駐箚の際の聯隊長、板垣征四郎大佐はそのまま、関東軍高級参謀に転任し、満州事変を華々しい軍事的成功に導いた。こんな所にも連隊と満州事変との意外な繋がりがある。

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