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   2004年8月15日号
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新史料館オープン
<立川駐屯地>
82年間の歴史を時代順に
 立川駐屯地(司令・平野隆之1佐)は7月5日、史料館の全面改装を終え、地元有識者多数の参加を得てオープンセレモニーを行った。
 立川飛行場は旧陸軍が1922年、立川村(現在の立川市緑町)に開設。昭和20年から米軍が使用したが、52年に全面返還され、58年の新駐屯地の発足時に史料館も開館した。
 旧史料館は、これまでも地元住民や飛行場由来の関係者らが寄贈した旧陸軍の偵察機や戦闘機の写真、木製プロペラ、制服のほか、自衛隊航空機のエンジンなど約700点を展示していた。しかし、手狭なスペースに貴重な資料などが所狭しと置かれていたため、今年1月から駐屯地広報班が主体となって改装工事を進めてきた。
 新しい史料館は、広さがこれまでの約2倍の280平方メートル。展示要領を変更して、飛行場開設以来82年間の歴史を時代順にたどれるように展示し直している。
 改装オープンセレモニー参加者や立川駐屯地所属隊員からの評価も高く、早速、部内外からの見学申込みが多数寄せられ、広報班は日々対応に追われている。

自殺予防 Q&A
〈第5回〉
酒は百薬の長?(うつと重なるとアルコールは危険)
防衛医学研究センター  高橋祥友
 42歳のA隊員が上司に連れられて精神科に受診してきた。
 「最近酒の量が増えてきた。以前は誘われれば飲む程度だったのに、眠れないからといって、毎晩ひとりで飲んでいる。朝も酒臭いことがある。アルコール依存症ではないか?」と、開口一番、上司が質問してきた。
 傍らで肩を落としているA隊員。詳しく話を聞いていったところ、酒量が増えてきただけではなく、いくつもの症状が明らかになった。
 きまじめで誠実なA隊員は与えられた任務を一生懸命にこなしてきた。しかし、ある時からどうしても仕事が思ったように進まなくなってしまった。ひとりで抱え込んでしまう傾向があるために、同僚や家族にも愚痴をこぼすことさえできなかった。
 そして、しばらくすると、眠れなくなり、食欲も落ちていった。さらに、仕事に集中できない、簡単な決断も下せないという状況になってきた。それでもA隊員は孤軍奮闘してきたのだ。
 とうとう、「私なんかいないほうがいい。皆に迷惑をかけるばかりだ。これまでに大した仕事もしていない」などと考え、死さえも頭をかすめるようになってしまった。
 A隊員には明らかにうつ病といってよい症状が出そろっていた。しかし、その自覚はまったくなかった。
 そんな時にアルコールに手を伸ばすというのは、中年の男性にしばしば認められるパターンである。酒を飲めば、気分が晴れると信じている人はA隊員ばかりではない。
 このように、うつ病の初期に酒量が増していく人がいる。酒を飲むことで、気分もよくなるし、ぐっすり眠れると多くの人が固く信じている。しかし、これはとんでもない誤解である。
 アルコールは長期的には中枢神経系の働きを抑える作用がある。その結果、睡眠の質を落とすばかりでなく、うつ病の症状自体も確実に悪化させてしまう。
 これまで特にアルコールの問題を抱えていなかった中高年の人が、徐々に酒量が増えるようになったら、その背後にうつ病が隠れていないか注意を払う必要がある。
 また、酩酊したうえで、自分の行動をコントロールできないような状態にして、自殺を図る人が非常に多いので、うつと多量の飲酒が重なると、リスクはきわめて高くなってしまう。

彰古館 往来
陸自三宿駐屯地・衛生学校
終戦前後の軍医学校
 今から59年前の昭和20年(1945)8月15日、終戦によって陸軍軍医学校は終焉を迎えました。所蔵資料は終戦時に焼却処分を受け、残された一部も全て散逸しました。それにも拘らず、彰古館には貴重な史料が現代に伝えられています。今回は彰古館に残された断片的な情報から、終戦時の軍医学校を検証してみます。
 3月以来の空襲の激化に伴い、新宿区戸山町に所在した軍医学校は疎開先を検討します。しかし、近隣の東京第一陸軍病院や、すでに疎開した陸軍幼年学校などを含めた敷地面積は約7万坪、診療部・薬品工場・印刷工場まで含めると1万5千人の職員という大所帯です。食糧難の折、受け入れ先は中々見つかりません。山形県では地元の協力と施設の借り上げで学生教育の継続が可能と判断され疎開が開始されます。
 5月25日の東京大空襲では、250機のB29が来襲、3,238tの焼夷弾を投下、焼失22万戸、被災者数83万人、死傷者数5千人、東京は一夜にして焦土と化し、軍医学校も標本館と衛生学教室を除き壊滅します。2〜3坪に1本当たりの焼夷弾が刺さる惨状でした。荷物を集積していた新宿駅も火災に遭いますが、貨車に積載済の資材は奇跡的に燃え残り、被害は学校長の黒塗りの高級車だけでした。
 山形での教育準備は着々と進みましたが、主食については東京から列車輸送されるので、戦局の悪化とともに、学生たちの食糧不足は深刻なものでした。
 8月15日正午から重大放送があるとの連絡が入り、学校職員、入校学生は玉音放送で終戦を知ります。翌日学校副官は、卒業半月前の入校学生の軍歴を焼き、大学に帰るよう命じます。軍歴がないのですから復員でも除隊でもなく、学徒動員解除証明書を受領して退校となりました。軍籍を消された彼らが、戦後の日本の医学界を担うのです。学校副官の独断でした。
 翌17日、左沢西方の本郷村小学校に疎開中の軍医学校衛生史編纂準備室は、学校本部からの命令で、陣中日誌、業務詳報、教程などの焼却を開始します。18日も作業は続きます。翌日、焼却中止と米軍への引渡し命令が下達されますが、所蔵資料の殆どはすでに灰と化していたのです。
 教育資材も焼却されましたが、参考館の展示品は山形盆地を中心とした広範囲に分散秘匿し、歴代軍医総監の肖像画は肥後銀行の地下金庫室に隠され、軍医団雑誌のバックナンバーは左沢工場コンクリート下に埋められたのです。
 9月2日戦艦ミズーリで降伏文書調印。同日、新宿の軍医学校跡地標本館前で復員式を挙行。7日、山形で軍医学校解散式。軍医学校の人員器材は東京第一陸軍病院に統合。11月26日陸軍省令第56号で軍医学校廃止。12月1日、国立第一病院に改編されました。
 標本館の貴重な展示品は、終戦による散逸を憂えた軍医たちの執念により、再び国立第一病院に集積されます。昭和31年(1956)、厚生大臣命で、全国の国立病院(旧陸海軍病院)の所蔵資料は衛生学校に移管され、現在も彰古館で我々が目にすることが出来るのです。

イラク派遣を終えて
シリーズ
北部航空警戒管制団 第28警戒隊基地業務小隊
2空曹 能祖 進
 今回、自衛官として国際貢献という任務に参加できたことは、自分の人生にとって為になったことだと今は考えております。正直な気持ちとして、無事に帰国できたからそう思うのかもしれません。無事に帰還することも「任務の一つ」という上司の言葉が支えになったことも確かです。出発前の心境は、北海道の果て網走分屯基地から1名の参加という状況もあり、周囲からの期待とそれに対してのプレッシャーは多々ありました。盛大な壮行会まで行っていただき、うれしかった反面、徐々に「帰らぬ人」扱いの心境にもかられた事は確かです。親族の反応は、やはり心配の渦であったことと思いますが、反対等は無かったので私にとっては救いでした。
 いざ出発、海外「未知への国」へ出国、初の政府専用機の搭乗ですが、民航機となんら変わり無く、乗り心地は最高でした。無事にクウェート国際空港に着き、まずは一安心、その後アリアルサレム空軍基地までバスで移動、街並み建物等は初めて目にする光景でした。徐々に砂漠地帯へ突き進むにつれ不安の絶頂にかられました。基地ゲートでは、アメリカ兵の厳重なチェック、それをパスして無事宿舎へ着きました。居室内はまだ片付いてはおらず、まずは、寝床の確保。その後公共場所のチェック、一応生活環境は整っておりました。しかし、その日のハプニングでトイレが詰まり、文面に出来ない程の有様でした。あっさり詰まるそのトイレは、アラビアではちり紙を使う風習が無く、また配管が細いため紙づまりが頻繁におこりました。意外と水には、困ることは無くシャワーも浴びる事が出来ました。しかし、電気温水器の容量が少なく、直ぐに冷たくなり水浴びの日々もありました。また、浴槽が無く湯船につかることが出来ず、帰国後はゆっくりとお風呂に入る事が唯一の望みでした。またクウェートは禁酒の国で、アルコール類が無くわびしい日々でもありました。酒が無いということで良い点は、もめ事が無く暮らせたということかもしれません。ノンアルコールビールは有りましたが、ノンアルコールでは今ひとつ話しが盛り上がらず、寝付けない日々も多々ありました。
 クウェート国は、油田の産業は有りますが、ほとんど輸入品に頼っている国ですので補給関係者は、物の調達に苦労したと思います。また、気候の変化等もあり、なかなか思いどおりの訓練が出来ず、ストレスを感じてた隊員も多かったと思います。クウェート国の時間「クウェートタイム」は、ゆっくりと夜空の星を眺めている様な感じです。また、日本では味わえない気候の砂嵐は、一寸先がもやのようにガスがかかった状態、実際には砂が舞った状態です。もちろん輸送機を飛ばせる状態ではありませんでしたし、目をまともに開けて歩くことは出来ませんでした。このような環境でよくこの国の人は住んでいられるなと感心させられた一面でもありました。人は、自然環境に慣れ、何処でも暮らしていけるのかもしれません。
 ことわざに「住めば都」と有りますが、現実に人間は、どのような環境でも暮らしていくことが出来るなと感じました。特にこれから国際貢献に参加する隊員には、柔軟な考え方、また他国の人との交流意識を持って頂きたいと思います。このような気持ちを持って望めば大丈夫だと思います。日本人はまだまだ島国根性の意識が強い感じがします。
 思いつくままに乱筆いたしましたが、今後、同じ任務に就かれる方の参考になれば幸いです。

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