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   2004年3月15日号
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<中央病院>
職能補導所で修了式
白濱院長 「積極、真摯、誠実に任務遂行を」
木工、パソコンなど履修
 中央病院職能補導所の第48期修了式が3月3日、三宿駐屯地で行われた。
 今期の修了生は陸自6名、海自2名の計8名で、昭和32年の第1期生以降、今期の修了生を含めてこれまで689名が修了したことになる。
 午前10時半、内局、陸海空各幕、中病の幹部が列席する中、修了式が始まり、開式の辞、国歌斉唱に続いて、足利英樹・職能補導所長が更生指導成果を報告。引き続き、足利所長が修了生一人ひとりに修了証書を授与した。
 次いで、白濱龍興・中央病院長が登壇、修了生代表の申告を受けたあと、式辞に立ち、修了生の入所以来の労をねぎらいながら「新しい職務においても積極、真摯に、誠実に任務を遂行するよう」激励した。
 来賓を代表して、中村範明・内局厚生課長が「今年は防衛庁創設50周年の節目の年。ここで培われた技能を、今後とも健康に留意しながら新しい任務に活かして下さい」と式辞を述べたあと、祝電が披露された。
 最後に、修了生代表が約-年間にわたる教職員はじめ関係者の配慮に感謝しながら「これからもそれぞれの職場で、環境に甘えず、全力を尽くして頑張っていきます」と答辞を述べ、式を終了した。
 修了生8名は約1年間、パソコン・電子科、一般事務科ワープロ・レタリング部門、木工科、建築設計科の履修科目をそれぞれ終え、この日、新たな勤務地等へと向かって行った。(金澤修治)

防衛医学セミナー開催
<市ヶ谷>
 平成15年度防衛医学セミナーが2月25日、防衛庁A棟講堂で行われた。
 午前10時、松谷有希雄防衛参事官と防衛医学セミナー長の中川克也陸将補(陸自衛生学校長)が挨拶したあと、草野厚・慶應義塾大学教授が「世界の中の日本−−どのように我々は協力すべきか」をテーマに特別講演した。
 引き続き、前年度シンポジウム経過報告として小林秀紀・陸幕衛生部長が「国際平和協力業務における自衛隊医療体制」を、また、セミナー長指定講演として福間詳・中病第2精神科部長が「自衛隊におけるメンタルヘルスと自殺予防」をテーマに、それぞれ講演した。
 最後に、「充実した第一線救護のための教育訓練」をテーマにシンポジウムが開かれ、7名の演者の発表のあと、参加者一同、活発に意見交換した。
 また、翌26日、(社)防衛衛生協会(芳賀稔会長)主催の第49回防衛衛生学会(会長=中川克也・陸自衛生学校長)が三宿地区で開かれ、一般講演や教育講演などが順次行われた。

中部防衛衛生学会開く
<岐病>
 第43回中部防衛衛生学会(会長・緒方克彦空将補=岐阜病院長)が2月18日、岐阜県各務原市の産業文化会館で開催された。
 午前中は、看護・部隊衛生・臨床医歯学部門計16題の一般演題が発表され、各演題とも質疑応答が活発に行われた。
 午後からは、今学会のテーマである「テロとの闘いと自衛隊医療」についてシンポジウムが開かれ、基調講演は各界の著名なスペシャリスト4名(▽片山善雄・防衛研究所主任研究官▽喜多悦子・日本赤十字九州看護大学教授▽邉見弘・国立病院東京災害医療センター院長▽レオ ボスナー・アメリカ合衆国連邦緊急事態管理庁(FEMA)危機管理専門官)がそれぞれ発表した。
 基調講演終了後、山田憲彦1空佐(岐病教育部長)の指定発言「テロとの闘いと医学・医療の役割」、畑田淳一1海佐(海幕衛生企画室長)の同「テロとの闘いと自衛隊医療について」をテーマに討論が行われ、今後のテロとの闘いの様々な局面における社会システムの問題点や、医療が貢献する可能性について意見交換した。最後に、一般演題から優秀演題として、沖本3陸佐(3後支連衛生隊)、長峰1海曹(呉衛生隊)、大堀海士長(舞病)の3名が表彰された。

メンタルヘルス講演会実施
<防衛庁自殺事故防止対策本部>
 防衛庁自殺事故防止対策本部では、2月16日から3月19日までの約1カ月間にわたって、面接等による所属隊員の身上(心情)把握の徹底などを図っている。その一環として3月1日、加藤晋介弁護士(岡山県出身、東大法卒、47歳)を講師に迎え、防衛庁A棟庁議室でメンタルヘルスに関する講演会が開かれた。
 午後3時、加藤弁護士が登壇、防衛庁・自衛隊の幹部約100名を前に「公務員の過剰債務問題」について講演した。多重債務の原因と解決手法を身近なそして具体的な例を取りあげて逐次丁寧に説明すると、参加者一同は熱心に聴き入っていた。

<彰古館 往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
救急車のルーツ(3)
〈シリーズ 26〉
 昭和3年(1928)以降は、国産の自動車が陸軍に採用されてゆきます。同時に、これをベースにして患者輸送車が開発されています。
 普通乗用車の後部に開閉扉をつけ、患者1名を輸送する簡単な改造車から、本格的なバンボディを架装した野戦で使用が出来る大型のものまで、各種の形態の車両が試作され、或いは少数の量産がされたのです。
 色々な形態の様々な衛生車両の中でも、患者自動車と呼ばれた車両は、現在の救急車の原型ともいえる車両です。
 大正5年(1916)には大阪市電気局が救護所までの輸送用に自動車を購入して患者輸送車両が製作された記録が残っておりますが、軍用の患者自動車は、単なる人員輸送に使用する車両でではなく、現在のドクター・アンビュランスの構想に近く、軍医が同乗して患者の容態の変化に対応出来る先進的なものです。
 昭和9年(1934)、国産軍用トラックの傑作と呼ばれた「九四式六輪自動貨車」が制式化され、同時にこの車台をベースとした患者自動車の開発が、世田答区用賀の衛生材料敞で始まります。
 試作車は、東京近郊での走行試験を終え、満州の悪路へと各種試験を繰り返して、小改良の後に「九四式患者自動車」として制式化となりました。この患者自動車が、おりしも勃発した第二次世界大戦中の全ての戦場で大活躍するのです。
 九四式患者自動車の装備化によって、戦地での救護活動は飛躍的な進歩を遂げました。一刻を争う負傷者の輸送では、本格的な治療ができる病院までの移動時間を短縮することが、医療現場における永遠の課題です。当時は器械化された部隊はほんの一握りで、重砲ですら馬で引いていたのです。自動車そのものが珍しかった大正時代から、患者輸送の可能性を模索した陸軍衛生部の発想は、過酷な外地での戦訓が生かされたものなのです。
 完成度の高い九四式自動貨車からの改造は、初期の患者自動車で指摘された懸架装置の硬さによる患者への影響は、サスペンションの見直しで改善しております。上下に突き上げる振動に対して初期減衰力は柔らかく「フンワリ」と受け止め、更に沈み込み量の増加とともに硬く「ググーッ」と2段階に緩衝することで快適な乗り心地を確保していました。運用試験では、金ダライに水を張り、こぼれる水を張り、こぼれる水の量を計測して患者に与える動揺の影響を研究しています。担架で4名、座位12名が乗車できます。また、満州での教訓として、排気管を室内に取り回したオンドル式の暖房装置が装備されているのも、当時としては非常に珍しいものです。
 彰古館には、試作段階での運用研究の報告書や取扱説明書の案などの史料が現存しております。

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