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   2004年2月15日号
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<寄せ書き>
CALFEX、03(15年度米国における射撃訓練)に参加して
第3普通科連隊対戦車中隊 2等陸尉  植草克晃
 9月6日から27日までの約1カ月弱、米国ワシントン州ヤキマ訓練場(YTC)での射撃訓練に参加させていただきました。この訓練は戦車、対戦車誘導弾、MPMS、MLRSおよび対戦車ヘリ部隊からなる約300名規模の射撃であり、対戦車中隊からは8名が25・26普通科連隊、5・11対戦車隊からなる対戦車誘導弾部隊として参加しました。
 出発当初から私には3つの目標がありました。1つ目は小隊長として自分自身が対戦車誘導弾を学ぶ事。2つ目は中隊だけに止まらず第3普通科連隊のそして名寄駐屯地の代表として恥かしくない成果を挙げて来る事。そして最後に、初めての海外を楽しんで来るという事でした。
 対戦車中隊に配置以降上富良野や佐多での射撃に参加し、「79ATMは撃てば必ず当たる火器」という誤った認識を私は持っていました。が、本訓練を経て、如何に3,000m以降の誘導が難しく精密さを求められるものか、小隊長として隊員や火器の状況の他、気象や地形更に細かく言えば風や他弾々着の煙にまで気を配らなくてはならないかを学ぶ事ができました。
 実施班は、出発前から課業内・外問わず誘導訓練や操法訓練を継続実施し、現地においては日々の射撃終了後に班長を中心としたAARを実施し、翌日の射撃に備えました。その努力が実って参加部隊の中で命中率トップ、唯一小隊戦闘射撃合格など、素晴らしい成果を上げることができました。五年に一度の貴重な訓練に参加できた事を感謝するとともに、今後本訓練で得た貴重な経験を、中隊に還元してゆく事が私の使命であると考えています。
 最後になりますが在米の間、イラク派遣準備訓練中の米兵や、恋人がイラクに行っている女の子と交流する機会を得ることができました。非常に印象的だったのが米兵はもちろんのこと、19歳の女の子ですら彼の仕事を理解し誇りに思っている事が、片言の英語しか使えない私にも強く感じられた事です。今後私も更なる誇りをもって任務に邁進し、親兄弟を初め私の周りにいる人達に恥じない働きをして行きたいと思います。
WlNS2003第3回ワークショップに参加して
米海軍大尉 ダニエル・フィリオン
 奨学金を受け日本で2年間留学することが決まった時、私は大阪大学大学院の国際公共政策研究科(OSIPP)でユニークな経験ができることを知り、志望しました。それはOSIPPと自衛隊が良好な関係を築いているからです。WINS2003の一環として11月下旬に行われた自衛隊の基地見学、そして自衛隊員と学生達の交流は、私の予想を大きく超えたものでした。基地の様々な所を見学させてもらえたこと、どこへ行っても暖かい歓迎を受けたことは大変嬉しく思いました。
 私は米海軍の大尉として、海軍の働き方をよく知っています。それゆえ、米軍と自衛隊の類似点と異なる点に気づくこともできました。ブリーフィングと見学によって、自衛隊の数多くの役割や装備だけでなく、任務に対しての自衛隊員の考え方も洞察することができました。特に自衛隊員たちのプロフェッショナリズムや勇気、責任感、さらに幹部自衛官の道義心および使命感が印象に残り、私の軍人としての意識を刺激する結果となりました。
 現在、米軍でさえ「統合性」が非常に重要になっていますが、私はまだ陸軍と空軍の立場を十分に理解できずにいます。しかし、今回の見学を通じて総合的安全保障と日本の防衛計画で自衛隊が果たす役割について多くのことを学びました。米陸軍と空軍の立場も少し分かってきたように思います。この見学は日米安全保障に関する研究に取り組むにあたり、すごく貴重な経験になったと思います。また、自衛隊に対する尊敬を理解を深めることができました。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
塩竃倉庫(株)  佐藤 敏男
(佐藤氏は平成14年7月、4空団=松島基地援護室を3空尉で定年退職。55歳)
 平成14年に定年退職し援護室の紹介により塩竈倉庫?に勤めて2年になりますが、一日一日が早く感じられ「光陰矢のごとし」の心境で毎日を過ごしています。
 現在、運行管理者補助業務兼社長付きドライバーとして勤務しており、仕事の内容はパソコンでの入出力作業が主で、運輸部の車両運行記録のデータ管理とドライバーの運行前、運行後点呼時の安全指導が主たる業務です。パイロットの飛行記録の作成保管など若いときの仕事とほぼ同じ業務なので仕事そのものは特に難しいと感じた事はなく、マイペースで勤務しています。
 ただ、出入り業者の受付窓口業務と同じ部署なので毎日数十人の来客があり、お客様への挨拶受け答えに戸惑い「いらっしゃいませ。ありがとうございました」の言葉が素直に出てくるまでなかなか大変でした。また同僚社員は31歳の主任以外は22歳以下と若い人ばかりで打ち解けにくい毎日がつづき、挨拶のできない若者、声が小さく話題も少なく、上司に対する不平不満ばかりを述べる若年社員の中にどのように溶け込んでいくか、受け入れてもらうかを大変考えさせられました。そして毎朝大きな声で自分から挨拶をし、できるだけ話し掛けることに心がけています。
 ある若者は今朝も大きな声で挨拶してくれましたが、まだまだ本気で受け入れられているとは思いませんので今後も積極的に若者たちの輪の中に入り込んでいき、生来の明るさ、人懐っこさ、人を笑わせる能力を生かし、この仕事が自分の天職と気持ちを切り替えて何とか話し合う機会を作り、自分流で根気よく勤めていこうと考えています。
 再就職を目前にしている皆様、まだまだ厳しい経済状況下で適職を探すことは困難だと思います。援護担当者とよく相談し、紹介された職種が天職と考え、若い人たちと一緒に楽しく勤務してみてはいかがでしょうか。

回想の70年代音楽(26)
新御三家に挑んだ男たち
 だいき このネタは随分前から考えておったのですが、何しろ野郎のことなんか若き日のパパにまるで関心がなかったのでデータ不足であることは否めません。
 ひろか 今はインターネットという便利な情報源がありますから、その気になればいくらでもデータ検索はできるんですが、今回はあえてそういう手は使わず出たとこ勝負で書いてます。
 だいき 実は新御三家野口五郎、郷ひろみ、西城秀樹のデビューした時期、曲名、当時の年齢も皆目記憶にありません。
 ひろか 郷ひろみなんか、72年のNHK大河ドラマ「新平家物語」に清盛の弟役(少年時代)に出ていて、それから歌手デビューしたんだよね。野口五郎は「博多みれん」という演歌系でデビューしたが、二曲目のたしか「青いリンゴ」でアイドル路線に変わったんだ。秀樹のことが一番分からないな。
 だいき ともあれ70年代の男性ポップス界はこの新御三家とソロ歌手に転じたジュリーに始まり終ったと言っても過言ではないでしょう。その陰に、彼らに頭を押さえつけられてメジャーになれなかった多くの男性アイドル歌手がいるわけです。
 ひろか そこでまあ、思いつくままにリストアップしてみますと、
 '73 城みちる「イルカに乗った少年」
 〃(?)あいざき進也
 '75 豊川誕(じょう)「星めぐり」
 '77 太川陽介「LuiLui」
 〃(?) 川崎麻世
 '78 渋谷哲平「ディープ」
 '79(?) 堤大二郎「燃えてパッション」
 あと、竹本孝之なんてのもいたような…
 だいき 城みちるはデビューして2年後の75年に突然父親から"学業に専念しろ"と言われ、芸能界から姿を消したんですが、その後このままで終われるかという気持ちになって芸能活動を再開したそうです。この「イルカに乗った少年」はこの時代の男性ポップス曲の中でいつまでも記憶に残る名曲と言えましょう。あいざき進也も知名度は高いが、どうも曲が思い浮かばない。
 ひろか 昨年末のある音楽番組で、彼は努力の甲斐あって75年にオリコンヒットチャートのベスト10に入る「???リクエスト」というヒット曲を出したと紹介されていましたが、チェッカーズの「涙のリクエスト」と似た感じでした。チェッカーズの方が「本歌取り」したんですかね。
 だいき 豊川誕は児童養育施設で育った少年ということが売りでもあり、重荷でもあったようですね。ママも若い頃(中学生?)ファンだったんだって。
 ひろか 80年代に入って新御三家の厚い壁を破ったのは79年のTVドラマ「三年B組金八先生」を踏み台にしたジャニーズ系の田原俊彦(としちゃん)、近藤真彦(マッチ)ですが、最近あまり見かけないね。新御三家はますます元気なのにね。

<部外者の声>
『27時間気持ちは自衛隊員』
大阪地連女性防衛モニター 石原裕美
 何でもけじめのある自衛隊では申告なるものから始まりました。初めての自衛隊用語。見たことはあるけれど、したことのない敬礼。訳のわからないままに隊員の方に促されて行動するものの、作業服ひとつ着るのに手間取る女性防衛モニター達。半長靴を履くのにまたひと騒動です。教育隊長より「時間を守る事、皆で助け合う事」と訓示を受けたのですが、何をするにも時間がかかります。基本教練では号令を聞いても身体が思うように動きません。頭ではわかっていても手足は誤った動きをするのです。また匍匐前進では、第1から第5まであるなんて知るよしもなく、作業服は泥にまみれ、肘にはあざができ、二の腕は筋肉痛で、これはもう頭でなく身体で覚えなければいけないと感じました。
 その後も目まぐるしく作業服の洗濯、夕食、入浴、作業服のアイロンがけ、半長靴の手入れ、清掃と分刻みのスケジュールで時間に追われ、あっという問に消灯時間です。
 翌日は朝6時起床と聞いていたのですが、甘かった……。突然「非常呼集です。起床して下さい」の声に「もう6時なの?それにしては暗いわ」それは4時50分でした。その後の支持で1階に集合した私達は、意外な言葉を耳にするのです。それはなんと、これから行軍すると言うのです。その言葉を聞いた時、半信半疑でしたが、伊丹駐屯地を出発してからようやくその厳しい現実に気づいたのです。
 すっぴんのまま約5時間、15?を行軍しました。自衛隊員の方が約20?以上の荷物を背負って行軍されるところ、私達は1?程度と随分考慮して頂いたようです。行軍中は助教の方が常に私達の健康状態に気を使って下さり、厳しさの中に優しさがあり、その優しさは甘くなくキリッとしたものでした。自分の事をするので目一杯で、なかなか他人を手助け出来なかった今回の生活体験ですが、自衛隊というのは、他の隊員と競うのではなく助け合って、協力し合って一つの目的を達成する集団であるのだと思いました。
 27時間気持ちは自衛官。こんなにも充実した時間を過ごせたのは久しぶりでした。自衛隊が普段どんな事をやっているのか、ほんの少しではあるけれど垣間見たように思います。
 このような貴重な体験をさせて頂き本当にありがとうございました。大阪地方連絡部の皆様、担当して下さった中部方面通信群教育隊の方々に改めてお礼申し上げるとともに、一層の自衛隊の応援団になろうと思いました。
「YS-11体験搭乗を終えて」
京都大学大学院人間・環境学研究所 修士1年  堀田啓之
 体験搭乗は強烈な印象を残してくれた。YS-11は小型のプロペラ機であったが、いざ飛行し始めると、飛行機が小型なせいもあって幾度となく揺れたため、眼下に広がる名古屋市内に感激しながらも20分間の飛行を終える頃には酔ってしまいグロッキー状態であった。後で隊員の方に話を伺ったところ、普段の輸送任務に比べると今日の揺れは穏やかな方だと聞き、私は隊員の方々のタフさとその任務の厳しさに驚嘆するばかりだった。
 今回の基地見学や体験搭乗を通じて現場の一端を知ることができ、普段日常生活の中では接する機会のない自衛隊について理解を深めるうえで、この機会は私にとって非常に有益な体験であった。
 最後になりましたが、今回の体験搭乗を準備下さった自衛隊の方々、貴重な機会を与えていただきありがとうございました。

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