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   2004年2月15日号
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<31空群>
年頭初飛行に6種、9機参加
US1Aも救難訓練実施
支援船とともに各種の救難訓練を実施するUS-1A
 第31航空群(群司令・松岡貞義海将補)は1月7日、年頭訓示の後、初飛行訓練と初航海訓練を実施した。
 群司令は年頭訓示で約700名の隊員に「我々の組織は何のために存在するのかという原点を忘れることなく、いつ如何なる事態にも国民の負託に応え適切に対応し得る高いレベルの精強性と即応性を兼ね備えた部隊を構築すべく、本年も引き続き諸官の先頭に立って全力を傾注してゆく。本年が第31航空群にとって更なる飛躍の年となるよう、安全を確保しつつ、任務及び訓練に全力をもって取り組んで欲しい」と訓示した。
 群司令の「かかれ」の号令では隊員はそれぞれの航空機、支援船へと駆け足で向かった。
 初訓練飛行には6機種、9機が参加、一斉にエンジンを起動した後、整列した隊員の見送りを受け、宮島、江田島を経由する訓練空域へ向かって離陸した。
 初航海訓練には2隻の支援船が参加し、基地沖合いの水上飛行場に向かい、放水訓練を実施の後、着水海面の掃海や警戒にあたった。
 初訓練飛行終了後に着水したUS-1A救難飛行艇は、救助員が海に飛び込んでの泳者救助法、救命索救助法やボート救助法の救難訓練を実施した。
 昨年、12月に救難出動回数が700回を超えたUS-1A救難飛行艇は、今後益々の期待が寄せられている。
 本年度の初訓練は天候にも恵まれ第31航空群の本年を占うような穏やかな天候の中、初訓練飛行及び初航海訓練を無事終了した。

ちくま
稚内港に今年初めて入港
盛大に歓迎行事開く
 第25護衛隊(司令・天川勝昭1佐)の護衛艦「ちくま」(艦長・高森安生2佐)は1月7日、稚内港に今年初めて入港し、「ちくま」士官室内で稚内自衛隊協力会、自衛隊志願推進協議会、うしお会主催の年初入港歓迎行事が行われた。
 年初入港歓迎行事は、稚内港にその年の最初に入港した自衛艦に対して毎年行われているもので、歓迎行事では、稚内自衛隊協力会会長の菅原氏から「国際情勢が緊迫の度合いを深めている中、ますます任務に励んで下さい」という激励の言葉が送られるとともに、各団体から激励品として乗組員分の紅白餅とみかんが贈呈された。これに対して司令が「航海の合間に、稚内に入港することを乗員皆が楽しみにしていますので、今年もよろしくお願いします」とお礼の言葉を述べた。
 訓練の途中に寄港した稚内港で年始から厚い歓迎を受け、乗員からは「今年1年、なにか良いことがありそうだ」との声も聞かれ、皆一様に今年1年の活躍を決意していた。

ラグビーで成人祝う
<札幌駐屯地>
 札幌駐屯地(司令・火箱芳文将補)では1月9日、駐屯地成人式を実施した。
 今年の新成人は36名で、部隊改編などで年々減少の傾向にあったのが5年振りに30名を超え、式には男子25名女子7名の隊員が出席した。
 午前中に行われた祝賀会食には、駐屯地友の会会長ら多数の来賓が出席、駐屯地司令から新成人者に対し「独立自尊の気概を持て」「失敗を恐れず、何事にも挑戦せよ」と、はなむけの言葉が送られた。また、友の会会長からは、毎年成人式に招かれ「溌剌とした若さあふれる自衛官から、エネルギーをもらっています」、そして新しい時代に向かって「海外の動きに関心を持って、外国語をマスターして下さい」と激励の言葉があった。これに対し、各部隊代表の成人者は「両親に感謝し、社会人、自衛官としての自覚を持って責任を果たします」と決意を述べた。
 午後からは、今年で46回目となる「新成人者祝賀雪中ラグビー大会」が、駐屯地ラグビー部員の協力を得て南訓練場で行われた。今年は通信群長以下、新成人の所属する大隊長、中隊長も参加し、指揮所通信中隊・出貝士長と中枢交換通信隊・寺本1士の力強い宣誓のあと試合が始まった。例年になく積雪が少なく競技開催が心配されたが、2日前からの大雪で当日までの間に50cm余りの積雪となり、開始直前まで吹雪いていた空も晴れ渡った。成人者のほとんどがラグビー初体験にもかかわらず、花園ラグビー競技を彷彿させる、白熱したゲームを展開。あまりにも真剣な試合に、応援の隊員からも、熱の入った声援が上がった。試合終了後は、豚汁が振る舞われ、また、先輩隊員により胴上げで雪の中に投げ入れられたりと、手荒い祝福を受け、全員大人の仲間入りを噛みしめていた。

玖珠駐屯地は戦車で綱引き
 玖珠駐屯地(司令・成清浩一1佐)では1月7日、駐屯地成人式を行った。
 今年は、成人を迎える女性隊員1名を含む60名に対して、玖珠・九重町両自衛隊協力会長や自衛隊協力団体の代表者が多数出席して、盛大に実施した。
 まず最初に、本部隊舎前の中央道路で、恒例のイベントとして隊員と74式戦車との綱引きを行い、戦車に結び付けた二本の大綱を一斉に引き、戦車(38t)が少しずつ動き出すと、元気の良い掛け声の下、30メートルも動かし、見守っていた隊員達から拍手と歓声が沸き起こった。
 綱引き終了後、駐屯地体育館で、式典が行われ、駐屯地司令の式辞後、来賓者から祝辞があり、新成人の門出を祝った。
 新成人代表挨拶として第八戦車大隊本部管理中隊の寺尾3層が「地域や日本をよりよい社会にするため、日々努力します」と力強く誓った。

<彰古館往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校 〈シリーズ25〉
救急車のルーツ(2)
 大正6年(1917)、5年がかりで開発していた軍用トラックが「四屯自動貨車」として陸軍の制式となり、同年7月、患者輸送用自動車が試作されます。しかし、その運用試験の結果は「構造・機能その他において、軍用として不適当」という厳しいものでした。
 翌年、シベリア出兵時に急遽開発された患者輸送車は、アメリカのレパブリック製の車台に、日本でキャビンを架装したものです。実際に運用してみると、トラックの車台はサスペンションが非常に硬く、満州の不整地では乗り心地が極端に悪いため、患者の容態にも影響が懸念されました。
 同時に輸入された英・仏・伊・米国の患者輸送車は、しなやかなサスペンションや、備え付けの備品など流石に進んだ設計の車両でした。しかし、やはり満州の過酷な使用条件では、車両自体が破損してしまうケースが多かったのです。
 この年、我国に輸入された自動車は1,653台、当時国内の自動車の総数は僅かに4,533台に過ぎません。
 陸軍は自動車の普及に伴い、衛生車両の開発と整備を継続して進めて行きます。しかし、大正12年(1923)の関東大震災で、世田谷区用賀の衛生材料敞に戦時用兵器として保管中だった衛生車両の全数を消失してしまったのです。
 この時、東京の復興のために、フランス赤十字社から病院車など20数台で編成された救護自動車班が派遣され、衛生自動車の有用性が改めて認識されています。
 翌年、東京石川島造船所自動車部(現在のいすゞ自動車の前身)がイギリスのウーズレイCP型1・5屯トラックを国産化し、陸軍はこれを採用します。衛生部では、この車両の荷台に負傷者を乗せて輸送する運用研究を開始します。
 この研究では、座位の場合、同じく横臥の場合の収容レイアウト、車両の進行方向に対しての負傷者の向きや体位、居住空間の基準などが算出され、患者輸送車の規格が定められます。
 この時期は、本格的な患者自動車出現までの充電期間だったといえます。
 自動車の歴史と陸軍の歴史は密接な関係があり、救急車の歴史も陸軍衛生と切り離せない歴史があるのです。彰古館の所蔵史料で、創生期の救急車の運用が窺い知れます。

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