防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   902号 (2015年3月1日発行)
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富士駐屯地
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水陸両用装甲車AAV7報道公開
 2月9日、うっすらと雪の積もる陸上自衛隊富士学校(校長・武内誠一陸将)で水陸両用装甲車AAV7の報道公開が行われた。29社43人が訪れ、全長8・2m重量21・8tという試験中の車両走行をカメラに収め、車内の見学をした。
 海上航行テストは、呉市沖の瀬戸内海で昨年11月に行われており、平成30年度新設予定の「水陸機動団」へ導入、順次52両を調達する予定。
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第94期幹部初級課程(BU)
攻撃総合訓練(FTC訓練)

極寒の富士の下、勝利のために
 富士学校普通科部(部長・冨樫勇一陸将補)は、1月26日から30日までの間、北富士演習場において第94期幹部初級課程(BU)学生78人に対し「攻撃総合」訓練を実施した。
 本訓練は幹部初級課程における攻撃課目の集大成であり、平成14年度からFTCの場を活用した実戦的環境の下、客観的・計数的に評価を実施し、普通科小隊長等としての指揮要領等を修得する訓練である。
 学生達は、普通科教導連隊第1中隊長奥村3陸佐の指揮の下、特科・機甲科・施設科部隊の配属及び協力支援を受けて1コ増強普通科中隊を編成し訓練に臨んだ。各学生は小銃小隊長、迫撃砲小隊長等の割り当てられた役職ごとの任務・地位・役割に応じて部隊を指揮して、対抗部隊の正確な直射・曲射火力による損耗を回避し、指揮の継承及び基本基礎の重要性を肌で感じつつ、中隊の任務達成に邁進した。
 状況中は、氷点下10度を下回る厳しい環境であったが、普・特・機・施の諸職種協同による総合戦闘力を発揮し、幹部初級課程の参加するFTC運営において過去最高の戦果となる敵戦車2両を撃破する等の成果を収めた。
 訓練に参加した学生はさまざまな教訓を得ることがき、本訓練は学生にとって卒業後の部隊勤務の貴重な糧となった。
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軽装甲機動車のCH—47への機内搭載卸下訓練実施
島嶼部に展開せよ!
 富士学校(学校長・武内誠一陸将)は、2月3日、富士学校総合訓練場において軽装甲機動車の大型輸送ヘリコプターCH—47への搭載卸下訓練を実施した。
 本訓練は、富士学校機甲科部(部長・藤本卓美陸将補)が富士教導団(団長・山中洋二陸将補)偵察教導隊の軽装甲機動車と偵察隊員の支援を受け、航空学校(学校長・大西裕文陸将補)教育支援飛行隊のCH—47が協同して、師団等の偵察隊が装備する車両である軽装甲機動車をCH—47の機内に搭載するものであり、富士学校等の部隊長等、約100名が研修した。
 南西諸島防衛の重要性が増大する中、今後機動展開能力が逐次整備されていく予定であるが、それに先駆け偵察部隊等を速やかに作戦地域へ展開するために空中機動させる練度を磨いておくことは機甲科部隊として喫緊の課題である。
 CH—47の機内搭載は機外搭載(スリングによる懸吊)に比べ、ヘリコプターの運動性や秘匿性に優れており、長距離の空輸に適しているが、装甲に覆われて車高が高く、重量の重い軽装甲機動車の機内搭載にはいくつかの問題点があり、それを明らかにすべく今回の訓練を実施した。
 偵察隊員が、軽装甲機動車に所要の処置を行い、ヘリコプターの機上整備員が慎重に機内に誘導して搭載した。軽装甲機動車を荷室に固定後CH—47はエンジンを始動、やがてローターが勢いよく回転し、軽装甲機動車の重量を確認するかのように、ゆっくりと離陸した。CH—47は数分間飛行してから再び着陸、ランプドアが開いてしばらくするとローターの吹き起こす強風の向こうから軽装甲機動車がゆっくりと姿を現した。
 今後は、機内搭載と機外搭載の利点・欠点等をとりまとめ、各部隊において訓練が円滑に行えるよう空中機動時の参考資料等を作成して普及する予定である。
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初級らっぱ集合教育
中間練度判定
〈特科教導隊〉
 特科教導隊(隊長・小野真嗣1陸佐)は、2月13日午後、隊が担任する初級らっぱ集合教育の中間練度判定を実施した。
 教育開始から約1ヶ月…。音を出すこともままならなかった24人の隊員は、「旋律」として、「信号」として、音を奏でるまでに成長をしていた。
 音楽陸曹から、「指導に忠実な演奏だと感じました」と評され、今後の着意点やアドバイスを受ける機会を設けることが出来た。
 一人ひとりの演奏力はまだまだとはいえ、この先1ヶ月の伸びしろを十分に感じる中間練度判定となった。練度判定の終わりに富士教導団長より「聞き惚れる様ならっぱの音色を奏でて欲しい」とのお言葉を頂き、益々目を輝かせていた。
 来週からは、儀仗訓練を含め隊訓練が開始される。駐屯地各所で、彼らの力強いらっぱの音を聞くことができるだろう。彼らの1ヶ月後の成長を期待したい。

雪月花
 「KANO」カノ1931年海の向こうの甲子園—。評判通りの感動の映画だった。練習試合でも1度も勝ったことのない無名の台湾南部の嘉義農林学校(嘉農)野球部の奮闘を実話にもとづいて描いた作品である。台湾では上映を一旦終了したが半年後にアンコール上映されたほどの人気だった。筆者も待ちかねて1月の土曜日に上映館に行ったが満員、日本での人気も大変なものだ。さすがにこの年で3時間の立ち見は無理、ウイークデイに改めて行ったがほぼ満席だった。野球とは縁を感じさせられないような高齢の女性も多く、眼を赤くして出てくる。四国の松山商業でエースだった近藤兵太郎監督の日本の内地人、台湾の本島人、台湾の原住民(高砂族)の3者に平等に注ぐ愛情と一球たりともあきらめさせない徹底した指導。馬鹿にしていた地元のひとたちの心も日を追って熱くなる。遂に甲子園の全国大会へ。同じ日に八田興一氏が設計した大規模灌漑事業嘉南大しゅうも完成し用水が溢れ、台湾南部の大穀倉地の元となった。4泊5日の航海でやってきた甲子園。神奈川商工、札幌商業、小倉工業を破り決勝戦は中京商業。エース呉明捷の指からは血が出ているがグランドの砂で出血を抑えている、最後まで投げきったが…。卒業後部員の多くは台湾の教育者になったり東京6大学でも活躍した。エース呉の控えだった呉昌征選手は藤村富美男、別当薫らの時代に巨人や阪神にも在籍し筆者も彼の活躍を新聞で読んだ記憶がある。日台野球の礎を築いた「KANO」だった。

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