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自衛隊ニュース   2011年10月15日号
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東日本大震災 33普連(久居駐屯地)隊員の声
凄惨な現場を前に彼らは…
 東日本大震災の際、久居駐屯地の第33普通科連隊(連隊長・鬼頭健司1陸佐)は震災直後から5月24日まで宮城県岩沼市を中心に隊員約600人を順次派遣し、人命救助や生活支援などの活動にあたった。そのとき何を思い厳しい任務をやり遂げたのか、隊員の生の声を取り上げ当時の活動を振り返る。
【東北へ】
 3月11日午後11時50分、鬼頭連隊長以下約300名の隊員が東北に向け出発。被災地への道は悪路と通信障害が続き、ようやく現地に着いた隊員たちは、その凄惨な現場を目撃して言葉を失った。
 「被災現場を最初に見た時は、正直、唖然として言葉が出なかった。早く被災者の方々を救助しなければという思いと、何から手をつけていいのか、今後どうなるのか、余震による2次被害は大丈夫なのか、など色んな思いが駆け巡った」(草津英樹3陸佐)。
 「あまりにも悲惨な状況を目にして、まずはため息しかでなかった」(西川浩史2陸曹)
 「最初に湧き上がった感情は自然の力への恐ろしさではなく、行き場のない怒りと憤りだった」(大石誠2陸曹)
【宿営地では…】
 33普連は主に船岡駐屯地を拠点とした。派遣当初は水や電気などが使えないため風呂に入れず、食事も缶詰のみ。夜中は零下になり寒さに震える厳しい環境だったという。
 「3月28日、夕食に初めてトマトが出た。食生活改善の兆候。これまで携行食ばかりだったから食事の改善は隊員の切なる願いだった」(大塚和弘3陸佐)。
 「宿営地から活動地域まで行く車両に子供たちは手を振ってくれ、毎日前を通る玉浦中学校の先生はいつも正門前でお辞儀をして見送っていただいた。今日も頑張らないといけないと皆が思ったはずだ」(山川弘資3陸佐)
 3月下旬になると水道なども復旧し、洗濯機なども備えられ、温かい食事も4月には1日1食出るようになるなど、徐々に生活面は改善されていった。
【過酷な捜索活動】
 活動場所となった宮城県岩沼市は、北には仙台空港があり、東側には宮城沖がある。甚大な被害があったこの地域の活動では、特に行方不明者の捜索では苦労が多かった。
 「隊員は黙々と作業を実施しているが、さすがに疲労の色は隠せない。また、ご遺体収容の際、若い隊員の中にはショックのため涙を流して作業している者もいる」(山本善之1陸尉)。
 「瓦礫の中からは、それまでここで生活していた人たちのアルバム、卒業証書など思い出がつまった物まであった。その人たちは無事に避難できたのだろうか、まだどこかで助けを待っているかもしれないと思い、些細なことにも気を配り捜索した」(小林信介3陸曹)
 「ご遺体を瓦礫の中から救い出して、担架に載せ毛布等をかぶせる。そして亡き骸に手を合わせた。搬送を待つご遺体を前にして色々な思いが込み上げた。どうか天国で安らかにお眠り下さい…心の中で何度も祈った」(佐藤允美3陸尉)
 「体力面より精神面がきつかった。ご遺体を発見した時、任務的には遂行しているが、お亡くなりになっているという感情との葛藤があった。ご遺族のために良いことをしていると自分に言い聞かせ、淡々と任務を遂行していくだけだった(草津英樹3陸佐)。
【様々な任務に奔走】
 10万人態勢となった3月14日には隊員約300名が増援された。任務は捜索活動のほか給水、炊き出しなど多岐にわたった。
 「給水活動の準備中、親子が車に近づいてきた。給水車両を別の場所に移動させてほしいのかな?と思っていたところ、お母さんから『何か必要なものはありますか?』と優しく話しかけられ、私は『大丈夫です』と答えた。女の子は照れながら笑って『ありがとう』と言ってくれた」(太田修陸士長)
 「岩沼市市民会館に避難されている方々に、ご飯と汁物を提供する炊事班の任務に就いた。中には家を失い、家族を失った方も多くいた。自分たちができること、それは『皆さんに温かくて美味しい食事を提供すること』で、そのことで少しでも喜んでいただけるよう全力を尽くした」(結城浩二3陸曹)
 「広報は被災地での活動を記録しながら、避難所で慰問イベントでの写真を提供し触れ合うことで被災者を癒した。家族支援は、家庭通信を発行して被災地での隊員の活躍を家族に伝えた。総務は発災当初、宿営地で大量の排泄物を日々ビニールに詰めて片付けた。自衛隊生活の大半を第一線で過ごしてきた自分には、裏方の重要さが身にしみた」(成田典正2陸尉)
【撤収を迎えて】
 「結果、一件の事故、怪我人を出すことなく任務を完遂できたのは、色々な人たちの応援と支えがあったからであり、そして各級指揮官から隊員に至るまで、日本人としての誇りや、自衛官としてのプライドを強く保持し、『この難局を絶対に乗り切ってやる』と熱い気持ちを持っていたからだ」(小島繁樹2陸曹)
 「一面水に浸かり原型の無かった町が、(災派参加中の)約2ヶ月で瓦礫・土砂などが除去され、道路が露出し、家中の清掃も実施され、人間が生活していた町が見えた。復興の兆しを感じることができた」(永野剛史2陸曹)
 「ある地区で瓦礫排除中に『自衛隊の皆さん、ありがとう』というメッセージが書かれた看板を見て心を打たれた。また、被災者や全国から頂いたメッセージを見て、期待されていることを十分感じた」(黒木浩二2陸曹)
 「この災害派遣を通じて自分の心境にもかなりの変化があった。それは幸せの度合い。家に帰れば笑顔で家族が待ってくれていて、それだけで本当幸せだと感じることができる今がある。今まで当たり前だったことの一つひとつに感謝できるようになった」(工藤大典1陸曹)

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