防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2011年8月1日号
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原子力災害派遣を終えて
中央即応集団(CRF)
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第11特殊武器防護隊長 3陸佐 小山田智哉

 第11特殊武器防護隊は、第12化学防護小隊の一部の配属を受け、中央即応集団、増強中央特殊武器防護隊隷下の「増強第11特殊武器防護隊」として延べ91日間、福島県において活動しました。隊は、「創意を凝らした任務の完遂」をスローガンに掲げ、除染所の開設・運営、行方不明者捜索における同行支援や人員・車両のスクリーニング、原発周辺地域の環境モニタリング、放水支援等多岐にわたる活動を実施してきました。活動に際しては、日頃の訓練の成果を十分に発揮するとともに、工夫資材を現地において作製する等、隊員の飽くなき探究心により、任務を効率的・効果的に遂行できたと考えます。また、本派遣間、旅団内の化学特技者も除染班員として参加し任務達成に大きく貢献しましたが、併せて、旅団としてのNBC事態対処能力向上にもつながりました。
 第11特殊武器防護隊は、4月22日、化学防護隊から特殊武器防護隊へと改編しました。隊は旅団唯一、北方唯一の特殊武器防護隊となり、その誇りと重責を被災地福島で実感するとともに、任務の完遂に向けて気持ちを新たにしました。
 本災害派遣は、北海道から遠く離れた福島での活動のため、派遣間わずか一度しか家族に会えない隊員がほとんどでしたが、隊員の被災地復興への強い思いとご家族のご理解・ご協力により、任務を達成できたと考えます。本派遣にご支援いただいた隊員家族及び関係各位に心から感謝するとともに、今回の災害で被災された皆様の一日も早い復興をお祈り申し上げます。

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中央即応集団司令部 3陸佐 鈴木敏正

 CRFの原子力災害派遣活動の一環として、原子力災害現地対策本部(通称OFC=オフサイトセンター)に派遣された連絡班の業務の一部について紹介します。
 OFCは原発事故の状況把握と予測、応急対処、住民の安全の確保等について、情報の共有や活動の調整を行う拠点として原子力災害対策特別措置法に定められています。今災害では、当初大熊町にあったOFCが政府の現地対策本部として再編成されたもので、3月15日から福島県庁に移設し、経済産業省副大臣または政務官を長として、関係省庁、警察、消防、放射線医学総合研究所、東京電力等からの職員により構成されています。
 私が、連絡班渉外幹部としてOFCに派遣されたのは3月21日であり、総理大臣指示により原発の放水冷却等に関する自衛隊による一元的統制・調整が明示された時期でした。OFCでは、福島第一原発や環境モニタリング成果等の膨大な数字とデータが氾濫する中、事故の長期化、住民や農作物被害への不安を抱きつつも、自衛隊の運用に資するため、日々変化する原発の状況に関し、関係部署から情報収集を行いました。
 5月10日から実施された住民の一時立ち入りにおいては、スクリーニング、除染、患者後送等の業務区分について、部隊が何を行うべきかを他省庁との役割分担を考慮して調整しました。
 今回の派遣では、CRF司令部民生協力課が持つ連絡・渉外の機能を活用出来ました。これは平素から担当者と関係を築き、小さな変化から部隊運用に資する情報を得て先行的に調整を行う方法ですが、その国際任務のやり方が、国内の災害派遣においても通ずるものであることを改めて理解することができました。

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中央即応連隊後方補給部1陸尉 馬場公世

 CRFは、福島第一原発の事故を受け、原子力災害対処の任務を行っていますが、司令部としても、福島県庁、Jビレッジ及び郡山駐屯地に連絡調整のための要員を派遣してきました。その中で、私は、郡山調整所の後方補給幹部として6月21日から25日までの間、郡山駐屯地で勤務しました。
 郡山調整所の任務は、同じ福島県で活動する第12旅団との除染等に係る調整及び郡山FSA、郡山駐屯地業務隊との兵站に係る調整であり、その中で後方補給幹部は、兵站に係る業務を担任し、派遣部隊と郡山FSA等との橋渡し的な役割を担っていました。
 上番時は、態勢移行の時期であり、郡山調整所も6月25日には撤収となることから、その撤収に係る業務が主でした。特に、郡山FSA撤収に伴う新たな兵站支援態勢への移行が業務の焦点であり、派遣部隊に対する兵站支援に間隙を作らないよう、補給、整備等の各機能の最終調整・確認を行いました。また、増強中央特殊武器防護隊の第4科の増強幕僚も兼務していましたので、支援を受ける側としても調整先や業務系統等の最終調整・確認を行いました。態勢移行に際しては、郡山FSA及び郡山駐屯地業務隊等の協力のおかげもあり、円滑に移行することができました。
 郡山調整所の最後の要員として撤収業務を完遂できたこと、また、増強幕僚としての部隊勤務を通じて現場の実情が分かったことは、短い期間ではありましたが貴重な経験となりました。
 今後もこの経験を活かし、現場で活動する部隊を支える司令部業務を行っていきたいと思います。

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第11特殊武器防護隊 3陸尉 井上孝夫

 3月18日、東日本大震災発災から7日目に派遣を命ぜられ、福島県郡山市に拠点を置いてから3ヶ月と数日が過ぎましたが、6月23日付で任務を解かれ原隊に戻ることとなりました。
 本派遣は、我々化学科部隊にとって正に毎日が実戦であり、日頃の訓練が試される場であると同時に、国難に際していかに迅速・的確かつ融通性をもって対応し、臨機応変に行動し得る組織の必要性を強く再認識させられるものでありました。
 また派遣期間中、スクリーニング会場に隣接して開設した除染所等において近隣住民の方々から頂いた数々の激励のお言葉は、我々にとって大変励みになったと同時に、国民の我々自衛隊に対する信頼と行動することへの大きな期待を肌で感じ、その責任の重さにあらためて身の引き締まる思いがしました。
 本派遣活動で得た教訓事項及び貴重な経験は、今後の訓練及び各種事態対応の場に反映させるとともに、有事の際、真に国民の負託に応えることのできる部隊、隊員の育成に役立てていきたいと考えています。
 最後に、被災地の早期復旧・復興と被災された方々が一日も早く被災前の生活に戻れますよう心からご祈念申し上げます。

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中央即応連隊第2中隊 1陸曹 笠嶋正広

 東日本大震災に伴い、我々中央即応連隊は原子力災害に派遣されました。拠点は福島県いわき市、任務は行方不明者の捜索です。これから、私がこの派遣で得た教訓事項について述べたいと思います。
 一つ目は、時間のある限り「情報収集」をしっかりする事です。テレビ・新聞はもちろんのこと、可能であれば現地に行っている仲間等と情報を共有して、いつでも行動できる態勢を最小限維持できる事が重要であると思います。
 二つ目は「物心両面の準備」です。中央即応連隊では、任務上即応性を意識した訓練を実施しています。今回の派遣では、我々の部隊は出動準備のための時間的余裕が比較的ありましたが、どのような災害派遣にも直ちに行動できるのか若干不安が残ると思います。この不安を解消する為にも平素から「物」「心」の準備による即応態勢の維持の重要性を再確認しました。
 一つ目の「情報収集」により、有効な任務分析が可能になり、二つ目の気持ち、装備、物品の準備により、不安材料が少しでも減少すると思います。「実任務」に従事する前にそれらが必要だと強く再認識しました。
 これが私の得た教訓ですが、これで終わることなく、日々の訓練で改善していきたいと思います。
 最後に、この派遣に参加し、いろいろ貴重な体験が出来ました。そして自衛官であるという自覚と誇りを更に強く感じました。この派遣の経験を無駄にすることなく「俺がやらねば誰がやる」をモットーに、これからの国内外任務の訓練に邁進したいと思います。

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第11特殊武器防護隊 2陸曹 山本憲司

 3月11日に地震が発生してから、旅団内の各部隊、道内の各部隊が宮城県、岩手県へ派遣され、我々化学科隊員にいつ派遣命令が出るのかということで、部隊内にいつもとは違う緊張感が漂っていました。
 出発が翌日ということが決まってからは、「不安な気持ち」と「覚悟を決めてがんばるぞ」という気持ちが自分の中で入れ替わるのを感じつつ、長期間不在にする家族のことを考えながら、部隊での出発準備をして、あっという間に出発時間になったことを思い出します。
 秋田港から東北自動車道を南下して福島県内に入りましたが、土地勘も無く初めて走る道路がひび割れていたり、民家の屋根が崩れ、信号や道路標識も流されており、南下し海沿いに近いほど地震や津波の爪あとが残っておりテレビ画面を通して見た映像よりもはるかに被害の深刻さを感じました。
 任務は、二本松市、福島市、郡山市にて除染所の開設・運営を経て、各部隊の同行支援任務を日々、刻々と変わる作業状況に対応して行いました。
 任務中に特に記憶に残ったことが二つあります。一つ目は、二本松市内の除染所を運営しているときに、スクリーニングを受けに来られた農家の女性のことです。これから植えるホウレンソウの苗を持って「このホウレンソウも計ってもらえますか?」と不安そうな顔つきで我々に話しかけてきました。女性を施設内の計測員に引継ぎ、数分後スクリーニングを終えて我々のもとに笑顔で歩み寄り、「問題ありませんでした。これで安心しました。自衛隊の皆さんには感謝しています」と深々とお礼をして行かれました。
 二つ目は、福島第一原発から20km圏内で瓦礫の除去をしている部隊に同行支援をしているときの瓦礫の運搬をしている民間の運転手さんのことです。瓦礫の除去をしている隊員が、毎日もしくは数日に一度の間隔で入浴するために、片道約2時間かけて福島駐屯地まで移動していることを気にかけてくれ、「自衛隊の皆さんは我々福島のためにがんばってくれているのに、一部の人が自衛官が入浴していることを批判していることに対して、本当に申し訳ないと思っている。復興のために支援してくれている人々に民間として作業地区の近くで入浴くらいは協力したい」と話してくれました。
 私は、被害にあった人々から直接感謝の言葉を聞いて、我々自衛官の存在意義の大きさ、活動した成果があったことを感じ心からうれしく思いました。

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第11特殊武器防護隊 2陸曹 野澤拓資

 3月18日から6月23日まで、福島県において派遣活動を実施してきました。
 何らかの形で国際貢献をしたくて自衛隊に入隊しましたが、まさかこんなにも大規模な災害が発生し、自国のために災害派遣に出動するとは入隊当時の自分には予期しえませんでした。車両に乗っているとおばあちゃんが頑張って下さいと深々と頭を下げてくださったり、女子学生からは、とても守られてる気がすると実直な感想を言って頂いたりと、一般市民の我々に対する期待が大きいことと、自衛隊は近くにいるだけで安心感を与えているんだなと感じました。
 主な活動任務は、福島第一原発に対する放水冷却隊及び偵察待機、環境モニタリング、同行支援でした。
 原発の注水冷却が順調に進み始めたなか、3月31日に新たな任務を下達されました。それは、バージ船接岸および74式戦車による瓦礫撤去活動に伴う事前偵察のため、原発敷地内に前進する内容でした。CRF副司令官を長とする綿密なブリーフィングを実施しました。そしていざJビレッジを出発、20km圏のライン通過と共に緊張感が最高潮に達したことを鮮明に覚えています。私は化学防護車の操縦手、車長席には内局の方を乗せ、東電の誘導車に付いていきました。
 到着するまでは緊張していたせいか片道20kmの荒れた道はとてつもなく長く感じました。
 そしてついに、TVでしか目にしていなかった建屋を目の当たりにした瞬間、その見るも無残な様相に、胸が熱くなり苦しくもなりました。放射線に苦しむ方々、生活や故郷を失った方々、飼い主を求め圏内を彷徨う動物たち、被曝した自衛官・消防の方々などの顔が私の感情を熱くさせました。しかし、その感情を押し込め逆に遂行意欲に変え、手に汗とハンドルを握りながら任務に集中しました。鉛のスーツの重さによる荷重ストレス、タイベック・密閉操縦・エンジンの通熱による熱ストレスや湿度の高さにより窓は常にくもり、手で窓を拭いながら視界を確保、無線にも対応、そんな条件下での操縦は非常に過酷であり、帰還するまでの4時間は無我夢中でした。
 だが、このような環境下で任務完遂できたのは、やはり我々が平素からの厳しい規律の元に基本訓練・練成訓練をはじめ、体力練成も怠ることなく、一生懸命訓練してきた証左であると感じました。これからも、任務を付与されそれが困難を極めるものであろうとも完遂できるよう、日々鍛錬し続けていきたいと思います。
 最後に、今回の震災で被害にあわれた方々の一日でも早い復興を北の大地から祈願しています。

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中央即応連隊第2中隊 3陸曹 田中剛寿

 私が自衛隊に入隊してから今年で14年になりますが、今までに経験した事のない原子力災害に派遣され、改めて「自衛官とは?」と考えさせられました。
 14年前の入隊式で宣誓した以上、自衛官は、常日頃から死に対しての覚悟を持っていなければならないと強く感じました。また、いつ自分がどうなるかわからないので、日頃から家族を大切にしておかなければならないとも考えさせられました。
 中央即応連隊は、現在、無事任務を終了し、平常態勢に戻りましたが、その任務を遂行できた理由としては、「どの方法がいいのか?」「そのために我々は何をしなければならないのか?」を隊員達が意見を出し合い、連隊一丸となって任務に向かった事と、この話し合いを通じて隊員間の絆が深まったからだと思います。
 更に、日本各地からの応援メッセージによっても活力を頂き、任務達成に繋がったと思います。
 最後に、テレビや雑誌等では派遣隊員をよく取り上げることから、現場の隊員がヒーローになりがちですが、我々の後方支援をしてくれた隊員や駐屯地に残り派遣隊員を支えてくれた隊員が本当のヒーローだと思います。


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