防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
スペーサー
自衛隊ニュース   2011年4月15日号
-
1面 2面 3面 4面 5面 9面 10面

災派隊員、被災地で献身的に救援活動
〈13旅団〉
 第13旅団は3月15日、甚大な被害を受けた東北地区に向け災害派遣部隊約2000名を派遣した。はじめに朝霞駐屯地で被災状況を把握に努めるとともに、13旅団の派遣場所となる地域における市町村のニーズや活動要領をすでに現地入りしている12旅団から申し受け、連携要領などについて調整を行った。各部隊はそれぞれの担任地域に到着後、速やかに偵察を行い市町村及び自治体との連絡調整、細部の活動場所要領等を把握した。
 13旅団は、いわき市、須賀川市、相馬市及び新地町における行方不明者の捜索救助活動を開始するとともに生活支援活動として学校、神社及び役場等において給水・給食・入浴、輸送支援等を行っている。また活動地域の放射線量を測定するモニタリングにも着手した。
 13旅団は、被災者や地域が一刻も早く復興するためにあらゆるニーズに柔軟に対応するとしており、旅団全部隊、全隊員が旅団の精神的支柱である『百万一心』を心に刻み、全身全霊をかけ『がんばろう!東北』を合い言葉にして活動中だ。
〈八戸駐〉
 八戸駐屯地(司令・吉田賢一郎1陸佐)では3月17日から26日の10日間、北海道の災害派遣増援部隊(第5旅団、第1特科団、第1高射特科団の約4150名、車両約1200両)が、八戸駐屯地に集結し被災地への派遣準備を整えた。浴場を13時から23時まで開放し、派遣隊員をバックアップ。八戸駐屯地と北方の部隊と強固な絆を深め、それぞれの部隊は八戸駐屯地から被災地に向け出発した。
 同22日には即応予備自衛官55名が八戸駐屯地に招集され、翌日には第38普通科連隊の車両で多賀城駐屯地に移動、24日から陸前高田市米崎小学校で入浴支援業務を開始した。また、岩手県久慈市に災害派遣されていた第26普通科連隊第1派(北海道留萌市)約160名が車両55両で「戦力回復実施に関する行動命令」により27日に八戸駐屯地に入り、派遣隊員が長期の勤務に耐ええるよう「戦力の回復」を図った。隊員は、疲労回復とストレス解消のため、食堂で温かい食事と広い浴場での入浴で疲れた体を癒し鋭気を養った。派遣隊員は、2週間振りの「温食・入浴」で感動したとコメントを残し、再び被災地に向けて出発した。29日と31日に第2・3派を受け入れた。

 災害派遣活動を行っている八戸駐屯地の隊員を激励するため3月23日に八戸市長が、25日に青森県知事がそれぞれ八戸駐屯地を訪れた。
 八戸駐屯地は地震後12〜16日まで八戸市・長根運動公園で支援活動を行っている。炊き出し(延べ5000食)のほか、海自機動施設隊と陸自が連携して八戸市内の瓦礫の除去作業に尽力した。また、青森県と八戸市の要請に基づいて同17日にりんご3万個、リンゴジュース3万本、22日〜25日には米などの食料品救援物資100トンを岩手県の各被災地に輸送した。
〈勝田駐〉
 三陸沖を震源とする大地震は茨城県内でも最大震度6強を観測、茨城県の海岸に津波警報が発令され、各所の港町が津波に襲われた。中でも大洗町には県内最大の高さ4・2mの津波が押し寄せた。県内のほぼ全域で停電、断水、ガスの供給停止などライフラインに壊滅的な被害をもたらした。
 茨城隊区長の施設学校長(小川祥一陸将補=勝田)は、地震発生後直ちに非常勤務態勢に移行して災害派遣に備えた。3月11日午後4時20分、茨城県知事から施設学校長に対して災害派遣要請が出された。津波警報が発令される中で施設教導隊が海岸線を南北に向けて被害状況を把握するとともに派遣部隊の移動可能な経路を偵察した。この間、上級部隊の第1師団(師団長・中川義章陸将)は、茨城県の災害対処のため第1普通科連隊(練馬)、第32普通科連隊(大宮)、第34普通科連隊(板妻)を勝田駐屯地に前進させて施設学校を増援、同日深夜から早朝にかけて、約1000名の隊員が県内各地で人命救助活動を開始した。
〈新発田駐〉
 第30普通科連隊(連隊長・大窪俊秀1陸佐=新発田)は3月11日の発災後、速やかに第3種非常勤務態勢に移行、同日夜半には主力約270名が新発田駐屯地を出発した。
 翌日には福島駐屯地に連隊指揮所を開設するとともに、被災地で応急救援活動を行っていた第44普通科連隊の任務を引き継ぎ、福島県内各地で行方不明者の捜索及び危険地域残留住民の輸送等、応急救援活動を実施した。本部管理中隊(中隊長・長谷川豪3陸佐)と第2中隊(中隊長・大泉清司3陸佐)は、相馬市の鹿島地区(本管中隊)、原釜尾浜地区(2中隊)で、津波で流された家屋や車両が散乱する被災現場で連日、行方不明者の懸命な捜索活動を行った。
 一方、東京電力福島第1原子力発電所の事故の影響で、原発からの住民への避難指示、屋内退避指示が出される状況を受け、第1中隊(中隊長・佐藤光一3陸佐)が浪江町の津島支所を拠点に福島原発から半径10キロ圏内で防護服を着用し、町内に残る住民の避難輸送・収容を同20日まで実施した。翌21日からは第3中隊(中隊長・富永誠3陸佐)がこの任務を引き継いだ。
 30普連では、「警察や消防と協力・連携して日々変化する各自治体の要望に積極的に対応し、一日でも早い復旧・復興を目指し、救援活動を続けていく」としている。

託児所を開設
—富士駐屯地—
東日本大震災災派隊員も利用
 富士駐屯地は3月17日、 駐屯地内に託児所(一時預かり所)を開設した。これは、女性自衛官や共働き世帯の増加、核家族化など、現代社会の変化に対応し、災害派遣等に従事する隊員が迅速に、かつ安心して業務に就くことができるよう留守家族支援を行うもので、厚生施設「和楽館」内に設置された。
 3月11日発生した東日本大震災に際し、災害派遣業務に従事する2家族が、開設された一時預かり所を利用した。体験した家族は、「いざという時、大変ありがたく、親として安心して職務に専念できます」と感想を述べた。
 また、富士地区4個駐屯地と御殿場市・裾野市・小山町との間では、「留守家族支援協定」が締結され、自衛官が安心して災害派遣等に従事できる体制が整えられている。
 富士学校総務部厚生課では、保育士資格を保有する要員の確保等の課題を解決しつつ、今後いつでも対応できるように、また、安心して利用していただくため、平時から、2市1町との調整及び周到な準備を進めていくとしている。

幹部自衛官の道へ
防大59期入校式
本科562名、21世紀の安保担う
 防衛大学校(神奈川県横須賀市)の本科第59期、理工学研究科前期課程第50期、同後期課程第11期、総合安全保障研究科前期課程第15期、同後期課程第3期学生の入校式が4月5日、同校記念講堂で行われた。今期入校者数は、本科562名(理工学434、人文・社会科学128、うち女子58)、留学生23名、理工学研究科前期課程64名(自衛隊員57、非常勤職員2、留学生5)、同後期課程6名(自衛官4,非常勤職員1、留学生1)、総合安全保障研究科前期課程19名(自衛官12、他省庁等3、留学生1)、同後期課程5名(自衛官3、非常勤職員2)。
 午前10時、防衛省・自衛隊の高級幹部、各国駐在武官、来賓、父兄ら多数が出席する中、小川勝也防衛副大臣が臨場、同校儀仗隊による栄誉礼を受けたあと、東日本大震災で亡くなられた方々のご冥福をお祈りして全員で黙祷した。国歌斉唱に続いて、五百籏頭眞(いおきべ・まこと)校長が登壇、本科・研究科各課程の学生をそれぞれ任命した。これに対して、各代表学生が力強く宣誓、申告した。
 五百籏頭校長は式辞の中で、自身が体験した阪神・淡路大震災の当時の状況を述べるとともに、今回の東日本大震災でも懸命に、献身的に災派活動を続ける自衛隊員を心から称えながら「入校生諸君、我々も後に続きます、後は我々にお任せ下さい、と胸を張って言える防大生に成長して下さい。国防において、災害において、そして国際協力活動において、逞しい指揮官として信頼され活躍する者となるための、一歩一歩地道な自分づくりが今日からこの小原台で始まります。新たな出発の途につく諸君が、21世紀の困難な多元的な安全保障をその全身をもって立派に担うよう」要望した。次いで、小川副大臣が東日本大震災での防大先輩隊員の活躍ぶりを称えるとともに新入生に対して「国民の痛みを自らの痛みとして捉えることができるような人間に成長するよう」訓示した。最後に、来賓を代表して河野克俊統幕副長が、急激な時代の変化の中での防衛省・自衛隊の役割について触れながら「幹部たるに相応しい識見の涵養、体力・気力の練成に努めるとともに、国際社会の諸問題に関心を持ち幅広い視野を養うよう、また、組織の基本は人であり、幹部は指揮官として人を率いる立場にあることから、人の上に立てる豊かな人間性を求めて真摯に自己修練に努めるよう」挨拶し、式を終了した。
 入校式後に行われる恒例の観閲式や午さん会などは東日本大震災の被災者の気持を慮って今年は取り止めとなった。

雪月花
 悲しすぎるニュースがあまりにも多い今回の大震災だが、たくさんの感動も伝えられた。宮城県南三陸町の放送担当職員だった遠藤未希さん(24)は3月11日、庁舎の2階で放送していた。「6メートルの津波がきます。すぐ避難してください」。繰り返し叫んだが最後の方は声が震えていたという、放送するのが精いっぱいで逃げられなかったのではないかとみられている。今年9月に結婚式も予定していた、遠藤さんの安否はまだ分からない(夕刊フジ)。この記事で樺太から引き揚げてきた大先輩から何十年も前に聞いた話を思い出した。戦争は終わったのに樺太の真岡に避難していた日本人をソ連軍が追いつめてきた。真岡郵便局に勤務していた9人の若い女性は最後まで通信手として働いていた。「すぐそこまで兵隊が来ています、早く逃げてください。さようなら皆さん、これが最後の通信です」。ぎりぎりまで打電した。大先輩たちは故郷・樺太を望む稚内の高台に9人を偲んで碑を建てた、映画にもなった「氷雪の門」である。岩手県でも役場の放送が使えなくなったことを知った男性は津波が来るのもかまわず、火の見やぐらに登り半鐘を打ち続けた。またマイクを握ったままの遺体も発見されたニュースもある。歴史を問わず日本人という人間性がそうさせるのだろうか。いま、国民から圧倒的な期待と信頼を寄せられている自衛官の皆さんだが、あくまでも正確な状況判断のもと慎重な活動をお願いしたい。自分の身を守ることも絶対的な任務であることも忘れないで。

NEXT →
(ヘルプ)
Copyright (C) 2001-2014 Boueihome Shinbun Inc