防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース
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自衛隊ニュース   2008年5月15日号
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女性初の副本部長誕生
福岡地本の須藤事務官
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 防衛省で初めて女性の自衛隊地方協力本部副本部長が誕生した。
 4月1日付で福岡地本に着任した須藤孝予事務官(=写真)である。昨年には女性の防衛大臣も誕生したのだから見方によれば不思議ではないものの、平時の第一線である地本の、しかも自衛官採用数全国第2位の大地本である福岡地本のナンバー2となれば特筆する価値がある。
 しかし本人は「女性初ということには特別な感慨はなく、男性、女性というより一人の職業人として任務の遂行を肝に銘じております。むしろ防衛省・自衛隊という男性が圧倒的に主力を占めるメガ組織において、地本という重要な組織のナンバー2である『副本部長』というポストに女性を受け入れて下さったすべての関係者のご理解とご尽力に深く感謝申し上げたいと思います」といかにも自然体である。
 須藤事務官は昭和52年4月に入庁し、平成5年から内局国際室、国際企画課等に勤務し福岡地本の前は、大臣官房秘書課国際室長を務めていた。国際室は防衛省職員の海外出張業務や各国の国防大臣等の防衛省・自衛隊訪問の調整、在日各国大使館に駐在する国防武官等への諸業務などを執り行う部署である。インターナショナルな華やかな舞台から地方の現場に赴任したのは本人の希望、どうしても第一線の現場の仕事がしたかったからだと言う。地方勤務も今回がはじめて。
 福岡地本の募集は「FACE TO FACE」の募集広報が主流で、余人をもって代え難い広報官集団が土日、休日夜討ち朝駆けの頑張りで目標を達成している。援護も企業主にDMを送り間髪いれず訪問する方式をとっており、昨年は400名の再就職支援を達成している(須藤氏)。福岡地本時津憲彦本部長の要望事項は「目標必達」と「明るく・颯爽と」である。須藤副本部長も全部員と一丸となって目標達成に、明るく、颯爽と日々業務に邁進している。(本紙・所谷)

埼玉地本が入間基地内に看板設置
盛大にお披露目式も
ビッグサイズの看板に電車の乗客も注目
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 埼玉地本(本部長・園田郁夫1陸佐)は、航空自衛隊入間基地の協力により、基地内に特大の募集看板を設置した。
 入間基地は、基地内を西武池袋線が走る非常に珍しい基地で、最寄り駅である「稲荷山公園駅」は基地の外柵に隣接しているため、駅のホームからよく見える基地内に看板の設置を依頼し実現した。
 看板は航空自衛隊をイメージした青を基調としたもので、高さ約5メートル、幅約8メートルのビッグサイズ。電車を待つホームから見えるピクルス王子の笑顔と「自衛官募集!」の大きな文字に地本は大きな期待を寄せている。
 4月9日に行われた看板のお披露目式には、中空副司令官・溝口<INLINE NAME="" COPY=OFF>伸将補(第24代埼玉地連部長)と入間基地司令・廣中雅之将補も出席、完成した看板の前で園田本部長や基地内に分駐所がある入間地域事務所の部員に対し「入間基地として協力できる事は惜しまず協力するので引き続き募集目標達成に邁進して下さい」と激励した。
 埼玉地本は、県内の駐屯地・基地の力強い支援を受け、今年度の募集目標達成に邁進している。

《論陣》
米の生産調整は廃止を
食料危機や人道支援のためにも
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 「春は3月」ともいうが、4月はもっといい。ウグイスのさえずりを聞きながら、ジャガイモの葉にしがみついている天道虫を、少し残酷のようだが指で押しつぶす。終わると、食べ残して硬くなってしまったネギを植え替える。農家の畑を見よう見真似しての、いうなればやっつけ仕事である。秋から冬にかけておいしいネギに化けてくれるからである。しばらくして、知り合いがトウモロコシの苗をくれた。20センチほど伸びた庭の雑草を自動草刈機で刈り取った。
 気がつくと庭の三つ葉が硬くなっていた。葺きはまだ柔らかいので摘んだ。菜の花は咲き終わり、青い実をつけていた。久しぶり小型の耕運機を取り出した。燃料のガソリンは1リッター119円で購入。運良く動いてくれた。小屋には結構な農機具が揃っている。東京育ちの妻が食べ盛りの子供たちのために野菜を作った名残を、いまや水飲み百姓の家に生まれた筆者が使い始めている。残念にもステンレス製の鍬は盗まれてしまった。
 治安の悪化は、窓ガラスが2箇所も空気銃で破損させられていることで証明できようか。それ以外では申し分ないといいたいところだが、ただ清浄だった水道水は地下水だけでなく、河川の水も紛れ込んでしまった。贅沢な悩みかもしれない。
 4月下旬の房総半島のほぼ中央の木更津市馬来田(旧馬来田村)では、田植えの季節である。昔は6月の梅雨時だった。そのころになると母は近所の大百姓の農家に頼まれて、泥まみれになって田植えを手伝っていたものだ。来月には90歳。足腰の老化で畳を這うのも仕方ない。働きずくめの人生であったのだから。子供時代の筆者も、わずかな家の水田で田植えを手伝った。中学校でも学校の田んぼでした。もちろん、秋には稲刈りも。
 田植えの季節になると、俄然蛙の合唱がいたるところで聞こえてくる。騒々しいのだが、とある場所に来ると、水田の半分が休耕田になっている。気になると、それがいたるところに広がっていることがわかる。農林官僚の悪政を見聞させられるようで泣きたくなる。農水省の政策の核心・米の生産調整である。
 調べると、69年(昭和44年)からだ。米の生産を減少させる。米つくりを止める農家に金を払うという、とんでもない農政を農協・農林族議員を巻き込んで強行してきている。それが現在も続いているものなのか。
 地球号は気候変動と人口増も加わり、食料危機の状況に追い込まれている。貧困は先進国、この日本でも増加している。食料はいくらあっても足りない。即刻、日本は生産調整という悪政をやめなければならない。農家には自由に米作りをしてもらう。
 余剰米をどうするのか。世界の貧困支援に役立てるのである。日本の人道支援・ODAの主役を米にしたらいい。日本人は米とサツマイモがあれば、餓死しなくて済むはずである。こんなことがどうしてわからないのか。不思議でならない。米生産国のタイ・インドでも米の輸出規制を始めて、輸入国のフィリピン、香港の人々に衝撃を与えているのだから。
 食料自給率40%を切ってしまった日本の農政を再生させる手始めが、米の生産調整を止めさせることである。いやなら農政官僚に辞めてもらうしかないだろう。7月の主要国首脳会議(サミット)では食料危機も課題になるのだから、政府として生産調整を止めるとの決断を示したらいい。
 偶然、太平洋戦争の生き残りの元日本兵が証言していたテレビを見た。「戦争する前に食べるもの、飲むものもなくて飢えて死んだ兵士が沢山いた」といって何人もの証言者が涙ながらに語っていた。日の丸弁当さえなくて飢え死にしていたのだ。
 筆者の子供のころには、農家なのに白米を食べる機会などなかった。そうした貧困層は世界に今も沢山いるのである。どう転んでみても、米の生産調整は止めるべきである。


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