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   2007年6月1日号
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「コブラ・ゴールド07」に参加
自衛隊医官等が住民500名を診療
タイ王国
 自衛隊は5月8日から18日までの間、タイで実施された多国間共同訓練「コブラ・ゴールド07」で、国連平和維持活動の指揮所演習及び海外での診療要領を訓練する医療部門の人道・民生支援活動に参加した。指揮所演習では、平和執行活動後の緩衝地帯における停戦監視や人道・民生支援活動をテーマに、自衛隊は日本、タイ、シンガポール、インドネシアからなる国連司令部の幕僚として各種見積を行い、計画作成までの一連の幕僚活動を訓練した。また、人道・民生支援活動訓練では、医官と看護士がペアとなった2コ組を編成、日本、米、タイ、シンガポール軍からなる医療チームの一員として、タイの7カ所の地域で巡回診療を行った。7日間の医療訓練で総数約9500名の受診者のうち、自衛隊医官等が約500名を診療した。(写真は5月15日、ノン・カナンで)

五百旗頭防衛大学校長に聞く
「21世紀の航海にたえる教育」
 昨年の8月に防衛大学校の学校長になられた、五百旗頭真(いおきべ・まこと)氏が就任以来各界の注目を集めている。なかでも三浦活断層による災害が発生したときには1800人の防衛大生は救援に向かわせなくていいのかとの発言はいろんな波紋を広げた。かれらは自衛官ではないので出動の義務はない、出動したときの指揮はだれが執るのか、いよいよ大事なだいじな虎の子も出すのかなどと内部外部でかまびすしかった。五百旗頭学校長は阪神淡路大震災で被害に遭っているだけに地元の行政機関や自治体に対する行動は早かった、防衛省・自衛隊へも防衛大生出動の根拠作りの協力を求めている。ご本人は自分は教育者だと言い、前例のなかった学校長講義を行っているが政治力もかなりのものだ。人気の神戸大学教授から防衛大学校長に就任された気持ちは?防衛大学校の原点は?槇智雄初代学校長への思い入れなど、もちろん名前の出自なども伺った。紙数の都合で学校長が校外で続けられている国際活動や学会活動などが紹介できなかったことが残念だった。=5月8日、防衛大校長室。(聞き手・所谷尚武本社会長)
防大の教育などについて熱心に語る五百旗頭学校長(左は所谷本社会長)
防大生の災害出動を問う
―学校長は阪神淡路大震災に遭われたらしいですね
学校長
私のゼミを含む神戸大学生39人も犠牲になりました。わが家も全壊となりました。
―その時、学校長が若い人のボランティアに会って感動したとお聞きしております。
学校長
そうです、そうです。やっぱり、あそこで歴史が動いたと思いましたね。初めはアメリカ人の留学生が私のもとに3人くらいいて、彼らが地震直後から当然のように救援に動き出したんですね。それで、日本の学生はちょっと戸惑ってたんですが、やがてみんなが動き出したので。もう合宿状態のボランティア活動でした。中国人の学生もいましたが、彼らは自分の知ってる人たち、家族親戚がいる人はもちろん救助に向い、先生や友人の安否確認をします。が、それを越えてのボランティアとか、そんな介入するようなことはしないです。日本人も元々そうだったんだと思うんですよ、儒教思想っていうのはそういうもので、自分の家族の中をしっかりそれぞれが支えあっていけばいい。よその家へのおせっかいはつつしむ。それを越えて社会全体を救うなんて、それはお上のやることでそれは公儀に対して畏れ多いというような感覚だったんです。ところが92年のリオの環境会議があって、NGOやボランティアが世界中、人類共同の問題を共有して解決すべきだと考えるようになった。いわば市民としての共感をもって動く文化が一般化しました。
―で、学校長が防大生に君たちならどうすると聞いたら、みんな当然だと答えたようですね。
学校長
えぇ、あの入校式の時の私の式辞でもふれましたが、彼らのうちで抗議するように言ってくる者がいるんですよ。学校長は、その時君らはどうするか、なんてしきりと問いかけるけれども、市民を救助するのは当たり前じゃないか、何度も何度も「どうするか君らは」じゃないだろう、という風に。私はやっぱりさすがだ、と思いましたね。嬉しいですね。
―防大生というよりか、一人の若者という感じですか。
学校長
そうですね。でも特に防大生はそうじゃないですか。やっぱり自衛隊は国民の命の最後の寄る辺ですから。およそ災害というのはまず現場主義で、本人が何とかすべきものですよね。雷が来たっていうと、ひとまず自分で家の中に入りなさいっていうのは当たり前のことですよね。だけど、そういうのではすまない大規模災害になると、個人の自助努力だとか現場主義だとか言ってないで、地方自治体がちゃんと助けないといけない。警察が、消防がやらなきゃいけない。もっとひどくなったら自衛隊が出動する。国は自衛隊を最後の寄る辺として言わばリザーブしてある訳ですよ。国防という特別な任務、それが究極的本分ですけれども、これのために日夜訓練している。
―百年養っている。頼っている、頼られていると言うことですね。
学校長
百年養っている。でも百年経っても国防のために出動するということは来ないかもしれない、一生無いかもしれない。それに対して必ずあるのが、非常に頻繁にあるのが、こういう自然災害の中で市民が命を失っていく事態です。その時に力を発揮しなければいけない。いや我々は国防のその時に備えてやっているんであって、こんな末梢的なことは関係ないよと言ってる人は、どこかおかしい。国は愛するが国民は愛さないということになる。あらゆる脅威に対して国と国民をしっかり守れるという心構えと訓練があって本当に大きなものにも対応できるのだと思いますね。
―防大生はまだ自衛官ではないので出動の義務はありませんね。
学校長
義務はない。確かに義務はないですよ。むしろ私の方が初めは事務当局からたしなめられた面があります、法規上そういう任務はございません。そういうような出動を命ずる根拠がありません。もし、これが部隊であるならば近傍派遣というので、現場部隊長の判断をもって命令することができる。しかし、学校長は部隊長じゃなくて教育訓練機関の長だから、それは現在の任務にはない。それじゃあ、教育訓練目的なら命令できるのかと言ったら、それはできますと。じゃあ、教育訓練のためにこれが要ると言えばいいんだねと。つまり将来幹部自衛官として国防のためにはもちろんだけれども、災害において救助するのも自衛官の任務だ。幹部自衛官となるために教育訓練していたところ、たまたまこの地に激烈な災害が起こった。どういう事態であるのかしっかりと見ておくのは教育的に必要だ。行ってただ見てるんじゃなくて、どうやったら効果的に救出できるかとか、そういうのも大事な訓練だ。そういう意味で教育訓練上の意味も極めて大きいから、私がそのために命令したら大丈夫かと事務当局に確かめたら、それは大丈夫ですということです。
―それで学校長に指揮権があるということですね。
学校長
一定の目的に関ってあるわけです。ただしその場合、もし救助中に家が潰れて犠牲になったら大変です。その時に公務災害として認められるかどうかは、それはちょっと解釈上なんとも言えませんということでした。だけどそれは心配するな、もしそんなことが起こった時に、国と社会が見捨てると思うか、市民を救うために防大生がそういう心配までしなくていい。それで「法規をちゃんとしてもらうという努力もすべきだ」「現状のこの中で教育訓練上の目的をもって命じたらいいか」などと防大内で論じていました。そんな時、自衛隊の幹部の一人に話をしたらもうすでに耳に入っていて「ぜひやってください。防災に対する自衛隊全体の対応の中で、防大及び防衛医大の人たちの協力も得て支援活動をするという一項を書き入れておきましょうか。」それがあったら、動きやすいと思います。
―自衛隊法の災害出動ですかね。
学校長
大災害が関東地域で、首都及び首都地域の大災害が起こった場合、防衛省・自衛隊として効果的に対応するための対処方針を作っているのだと思います。その中で、防大と防衛医大も可能なことをやるんだということを、全般的な省の方針、国の方針として書いておき、そして法令上も整備しておく、そうすると防衛大学校の学校長が根拠もないのに勝手なことをやったという話にならない。そういう配慮から災害派遣計画に書き入れることを考えてくれているんだと思います。
―全国的にみても静岡は本気で取り組んでいます。静岡県の防災会議は知事が主催して毎年3自衛隊も積極的に参加しています、会議の会場も自衛隊の中です。
学校長
そうですか。自衛隊は動き出したら力強いですから。だから私は逆に防大生という1800人もの元気な基礎訓練を受けた若者が万が一の場合、三浦活断層の動きが心配されているこの横須賀地域のお役に立てるといいと思うわけです。

下克上のない組織
槇初代校長

―学校長のものは色々読ませていただいていますが槇智雄初代校長のお話がよく出 てきますが…。
学校長
会ったことは無いんですが、尊敬しております。
―その時代の防大に帰りたいと学校長はおっしゃってましたね。
学校長
帰るというんじゃなくて、精神拠点として基本に立ち返って出直すということが非常に意味あることだと思っております。私は半年間いて、これからの防大をこういう風に変えていこうという構想を考えています。省に移行して政策官庁の実を築く上で人材育成こそが重要だと、大臣からのお話もあり、たいへん有り難いことです。それを受けて防大も役割を担いたいと申し上げ、いくつかの具体的課題の中で、槇記念室を開設したいと提言しています。
―現在は資料館がありますね。
学校長
今は資料館があるんですけど、防大全般を説明するものなんです。資料館を見た上で今度は槇記念室で静かに自分自身がどう生きる、幹部自衛官になるというのはどういうことか、槇校長と対話をしながら自分自身の志をしっかり持ってもらう。そういう場があればと思っています。槇校長は防衛大の精神的拠点だと思います。
―槇校長と吉田茂(元首相)さんは、下克上のない組織にしたいと言っていましたけれど。
学校長
「下克上のない幹部を作ってもらいたい。」あれは面白いですよ。ダレス(ジョン・フォスタ・ダレス 終戦時の米大統領特使、後の国務長官)は朝鮮戦争が起こって51年の1月にやって来た時、日本は独立するんだから当然再軍備するだろうと考えてたので、自国の安全のために、さらに自由世界に貢献するためにすぐ再軍備しなさいという風に迫るんです。しかし吉田さんは、いや待ってくれと。彼は実はね、ダレスに断る半年前に増原恵吉長官に対して、下克上のない幹部をつくってくれと言って、防大の構想を指示してるんですよ。かつての独断専行の参謀本部じゃなくて、民主社会にふさわしい教育するのが先だと。それができたところで、やおら部隊を作る。

廉恥・真勇・礼節
学生自身で作った綱領

―部隊を作る前に教育の充実というわけですね。
学校長
ちゃんと精神のしっかりしたね。そこで小泉信三さん(1936年から1947年まで慶應義塾大学塾長)に紹介されて吉田さんが槇校長に会って惚れこんじゃったんです。この人なら大丈夫と。「軍事専門家である前に立派な紳士淑女であれ。」大変立派な思想の持ち主が初代校長でした。ただ槇校長は非常に悩んだんですね。つまり愛国、自衛隊と防衛大は国のためでしょ。そうすると伝統とか愛国心とか、そういうものを拠点にする以外ないじゃないですか。それでアメリカの士官学校に赴いて、広い人間性とか知識の基盤をまとっての愛国心・軍人精神というものに共鳴して帰ってきた。そしてようやく彼の腹が据わったのは、伝統というのは過去に求めるのではなく、自らつくるべきものと達観するんですね。そこで君ら自身で綱領を作ってくれと学生たちに訓示することになります。指示を受けるんじゃなくて自分たちで作れって言われて驚いたようですよ。それで例の「廉恥、真勇、礼節」の学生綱領、学生たちが2年がかりで作った。槇校長がその報告を受けたのですが、やや怪訝な顔をしたといわれます。
―意外だったのはなんだったんでしょうか。
学校長
意外だったのはウエストポイントにも学生の戒律みたいなものがあって、それは「盗むな・嘘つくな・欺くな」のモーゼの十戒みたいな三戒みたいなのがあって、それに違反したら学生自身が厳しく退学処分とかをやるらしいんです。そういうものがあることを参考にしながら学生たちがどういう風にするかと思っていたら、三戒風な処罰対象じゃなくて、心構えとする価値理念をしっかりつくったというので、大変結構だという話ですね。そういう伝統を自分で作られたという歴史が防大にはあるわけです。
―その伝統はこういう形で現在あらわれているのでしょうね。
学校長
初期の人たちは槇校長の教えをマキイズムって大事にしただけでなくて、それを結晶させた学生綱領を自らが作ったわけです。それがよく根付いたと思うんですね。アメリカは何かあると独立革命の精神です、フランスではフランス大革命の精神。ところが日本社会には不幸にしてそのようなものがない。しかし、防大生は幸いにも防大の伝統にもどれる。何かあったらそこに帰って、そこで槇校長と対話して、そして自分なりのものをまた見つけ出して再出発してもらいたい。そういう風に精神の拠点に戻って新たな力を得て活動に向
かうというふうにしたいと考えています。

神戸大から防大へ
―学校長は神戸大学の教授からこちらにお見えになったんですね。その時に周囲からそんな馬鹿なことはするなとか言われたことはありませんでしたか。
学校長
ええ、相談するわけにいきませんのでね、国家機密ですから。だからあまり広く事前に聞いたわけじゃなくて、ひそかに相談する人にはして、一緒に仕事をやってる仲間には困ると言われましたね。そして信念としてもいろんなタイプの人もいますからね、よりによって防衛に行くなんてとんでもないと、そういう気分の人もおられて。それから防衛には抵抗無いけれども、官ではなく民間で柔軟に働いてくれると思っていたのにと言う人もいました。
―ご家族はいかがでしたか。
学校長
地震で傾いた家も再建して幸せな大家族2世帯の態勢ができたところだったので、反対されるかと思ってたのに、意外にも家内は関東にも折があったら住んでみたいと思っていたのでいい機会だから私はいいですよ、と言われてこっちがびっくり仰天しました。
―奥様は自衛隊の状況なんかご存知なんですか。
学校長
いや、家内は全くのノンポリです。政治・社会・軍事のことは関係ない人で抵抗感がないんですね。いい話じゃないのって、娘たちも当然反対すると思っていたら、結構ポジティブなんですね。ちょっと首を傾げてたのが西宮にひとりきりになってしまった娘だったですけどね。だけどお父さんが決めたら私はいいから思うようにして。家族のサポートですよね。それからもう一人、今年の防大卒業式で、式辞をやってくれた山崎正和さん(大阪大学名誉教授・LCA大学院大学学長)が、高坂正堯さん(元京大教授、1996年没)が生きていたら君にやってもらうのを望むに決まってるじゃないかと亡くなった人の名前を出してまで受けるよう説かれたのには驚きました。神戸大学の元学長の新野幸次郎さんは反対でしたね。やっぱり神戸にいてほしいと。でも神戸に六甲大後援会という組織があるんですが、そこでの50周年の基調講演の話を新野先生から電話いただいてたり、今は納得してもらってます。

防大は「魂の故郷」
―学校長の文章を読ませていただいていますが本当に格調高いですね。国家の品格・品性とか言いますけれども、それを感じます。学校長のお名前が五百旗頭ですが、これもその辺に何かありそうですね。
学校長
姫路藩なんですよ。姫路藩に数軒この名前の家があったようで。そのうちの一軒がうちの先祖です。父は今の神戸大学経済学部の教授をやっていました。さかのぼっていくと、秀吉が黒田勘兵衛に姫路城の築城を命じた時の責任者に先祖がなっていて、五百旗頭宗右衛門、上も四文字、下も四文字のとんでもない人です。五百旗頭ってだいたい誰も読めないでしょう?司馬遼太郎さんも読めないだろうと思って、学生時代には名刺持ってないから紙に書いて渡したんです。「いおきべさんですか」って読まれました。さらに理由を説明して大和王朝の時代に五百の木で部族の部がついて、五百木部という一族があった。それがおそらく戦国時代に何か悪いことしようと思ってお家再興を想って木部よりも旗頭が強そうに見えるから、そう置き換えてやりだしたんちゃうか、というようなことを司馬さんはおっしゃるんですね。
―防大のOBの人たちと私はお付き合いさせてもらってるんですが、同期でも今は階級がこんなに違っても個人的なお付き合いがあって、みんなすごく仲がいいですよ。それで仕事の時はきちんとたててますしね。変な狎れ狎れしさじゃなしに、けじめはしっかりしている。すばらしいですね。防大の寮では1年生から4年生まで同室するわけですからね。あの時にあの人は僕が1年のときの3年生だったとか、だから何でも相談するんだっていうことをよく聞きます。
学校長
それは本当にいいことで、やっぱり色々なチャレンジが絶えずある真剣勝負の小原台での4年間で、楽ではない、それを一つひとつこなしていくということで、気持ちの持ち方もまっすぐにしていく共同体ができていくんでしょうね。
―学校長は学生といつも接触されている印象ですね。
学校長 昨年の8月2日にここに着任したんですけれども、その日に宣言したことは、私は管理職者になるのかもしれないけれども教育者であることをやめませんと。それで毎月1回、前例はなかったんですが全学生に講義を行っています、学生には何かの行事の時に近くへ来れば声をかけるようにしています。例えば私が挨拶で言ったことについて質問されたりします。やっぱり若い人と討論することは大切です。
―OBの方たちにメッセージをお願いします。
学校長
OBの人たちは戦後の苦しい時代に立派な伝統を築いてくれました。今もOBの方々が防大を「魂の故郷」と感じ、大事にして下さってることをひしひしと感じます。これから幹部自衛官の役割はますます大きくなると想います。21世紀の航海に耐える教育を改めて防大としても求めたいと思いますので、変わることのない励ましを後輩たちにお願いします。槇記念室が出来ましたら、是非一度お訪ね下さい。
(文責・編集部)

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