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   2007年4月15日号
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《彰古館 往来》
陸自三宿駐屯地・衛生学校
<シリーズ 62>
陸軍軍医学校の残照 4
岡谷米三郎軍医の足跡
 近年、彰古館から発見された「日露戦争時の習志野捕虜収容所写真帖」は、内外に大きな反響をもたらしました。ロシア大使館、ロシア国立軍事歴史資料館、イタルタス通信社、イズベスチア紙、産経新聞社などから高い評価と賞賛を受けました。
 写真帖発見後は、電子ファイル化、原本の修理と並行して撮影者の確定調査を実施し、岡谷米三郎一等軍医と判明しました。
 調査段階で、新しいことに挑戦する姿勢、戦傷者に対する自愛心、捕虜に対する暖かい視線、傷痍軍人に対する数々の施策と考案、現行の医科器械に対する業務改善など岡谷軍医の人物像が浮き上がります。
 100年前の個人の経歴調査は難航し、日露戦争後の公文書では全く消息を確認出来ませんでした。
 調査が行き詰る中、産経新聞の掲載記事を見た御係累の方からご連絡を頂き、平成19年3月14日に衛生学校に来校頂きました。
 岡谷軍医の孫に当たる岡谷晃氏、卓司氏、勝邦氏、晃氏の長男の進氏らと、彰古館の岡谷軍医関係史料を呈示しながらの談笑は時間の経つのも忘れました。
 岡谷軍医は、日露戦争後の明治42年(1909)に42歳で結核で亡くなられていたと御教授を頂きました。軍歴をいくら調査しても分からなかったはずです。岡谷軍医は日露戦争勃発まで休職中だったことが調査段階で判明していましたが、どうも結核療養中のところ、国家存亡の危機に際して復職したもののようです。その他、日露戦争に関するたくさんのエピソードが、子から孫へと伝わっています。
 もちろん、若くして亡くなられた岡谷軍医の顔を直接見た方はいらっしゃらないのですが、家訓を始め、御親族にも大きな影響を残されていると感じました。
 日露戦争後は、朝鮮の定地病院勤務を経て、日本歯科大学の前身である共立歯科学校の設立時に講師として名前を連ねていました。行く行くは学校長にとの話もあったようです。
 岡谷軍医は3人の男児を儲けていました。
 長男昇は内科医として20年以上に亘ってサイパン島で医療活動を行い、現在病院は大学となっています。戦後は内科・小児科医院を開業していました。
 次男勤は林野庁から南陽庁に転勤し植林に当たり、退職後はスマトラでマラリアの特効薬であるキニーネの栽培を経て、退職後は南洋植物の研究者となります。
 三男勝利は千葉大学の1期生として卒業後、病院勤務を経て耳鼻咽喉科を開業しました。(以上、岡谷卓司氏作成資料による)
 孫は10人を数え、それぞれが医療関係、薬剤関係を始め、現在も各方面で活躍されています。
 曾孫の進氏は、曾祖父の米三郎と同じ口腔外科医として開業されています。
 軍医学校の残したものは、形のある記念品だけではありません。100年前に一人の軍医が確かに存在していた証しが、御係累の心の中に脈々と伝わっていました。
 習志野捕虜収容所の写真帖を切っ掛けに、担当者も御係累の方々も、それを再確認したのでした。

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