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   2006年11月1日号
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イラク支援活動展を開催
《陸自広報センター》
盛大にオープニングセレモニー
軽装甲機動車、パネル写真など展示
 イラク人道復興支援活動特別展が10月11日から2カ月間にわたって陸自広報センター(朝霞駐屯地前)で開催されている。
11日のオープニングセレモニーには、駐日イラク共和国大使館付武官のサミ・アルカファジ准将を来賓として迎え、東方総監部の磯部晃一幕僚副長、寺崎芳治陸幕監理部長をはじめ陸自幹部や一般見学者約60人が出席した。最初に、アルカファジ准将が祝辞を述べたあと、東方音楽隊の華麗なファンファーレが吹奏される中、テープカットなどのセレモニーが挙行され、イラク特別展が盛大に開幕した。
 主な展示内容は▽イベント広場(イラク仕様の軽装甲機動車・装輪装甲車、高機動車、ドラッシュ天幕)▽イベントホール(各種隊旗、サマーワ宿営地の門標、各群の記念楯、パネル写真、防弾チョッキを含む防暑服などの試着、寄贈された絵画・プラモデル・ラジコン車両、派遣活動の広報グッズとイラク広報ビデオ放映などとなっている。
 〈アルカファジ准将の祝辞(全文)〉皆様、それから陸上自衛隊の方々、こんにちは。今日この場に居ることを大変嬉しく思います。イラクの人達は、日本の政府が陸上自衛隊をサマーワ市へ派遣して建物の修理や学校・橋・道路等を再建してくれたことを忘れることはないでしょう。サマーワの人達は、陸上自衛隊から日本人のマナーや働く姿勢を学びました。この経験は次に生まれてくる子供たちにも引き継がれていくでしょう。陸上自衛隊は撤収しましたが、日本の支援は、まだ続いています。もう一度ありがとう。最後に言わせて下さい。イラクは、まだ日本の知識や技術を必要としています。ありがとう。

硫黄島関係者の集いに参加
海自厚木基地 第4整備補給隊 2海曹 中村 岳
 皆さんは、「硫黄島」をご存じでしょうか? 小笠原諸島・父島からさらに南へ270km、東京から遥か1250kmの太平洋上に浮かぶ周囲約22kmの小さな孤島です。亜熱帯に位置するこの島には、戦前、約1000人の住民が住み、離島ながら平和な生活を営む南海の楽園でした。
 しかし、先の大戦末期の昭和19年、サイパン島が玉砕すると、この平和な島の様相は一変します。サイパンと日本本土の中間に位置し、比較的平坦なこの島は、重要な戦略拠点として整備されることになり、3つの滑走路を持つ飛行場が整備され、全島をくまなく地下壕でつなぐ要塞化工事が始まったのです。
 その後、米軍の上陸が予想されたことから、固有の住民の本土疎開が行われることになり、島民は、断腸の思いで故郷を離れていったのです。そして、翌昭和20年2月米軍がついに上陸、日米双方2万7千人以上が戦死する凄惨な戦闘が行われ、日本軍はついに玉砕、硫黄島は平和な島から一転、多くの英霊が眠る、鎮魂の島となりました。
 戦後、長く米国の統治が続き、日本復帰が実現したのは、昭和43年のことでした。しかし、あまりにも荒廃した硫黄島に再び住民が住むことは適わず、わずかに自衛隊員が駐屯するのみで現在に至っています。
 しかしながら戦前まで、硫黄島で生活されていた方の望郷の念は大変強く、昭和45年以降毎年、「硫黄島関係者の集い」を開催し、硫黄島の想いを今に伝えてきたのです。
 私は平成16年から18年まで、この硫黄島で勤務する機会を得ましたが、在島期間中、英霊の遺骨収集、旧島民の墓参等で硫黄島を訪れる民間の方々を、私たち硫黄島駐屯の自衛官がお世話をさせていただく機会が度々ありました。
 その中で「硫黄島関係者の集い」の存在を知り、今回初めて「平成の島民」ともいうべき私たちがこの貴重な集いの中に参加させて頂きました。
 かつて幼少時代を硫黄島で過ごした方々も、今は70、80年代の高齢となられましたが、かつての硫黄島を、まるでタイムスリップしたかのように目を輝かせて、当時の模様を語ってくださる姿が印象的でした。
 絶海の孤島の生活は、さぞ大変であったかと思いますが、かつての島民の方たちから聞く島の生活は、実に楽しいものであったようです。摺鉢山への遠足、正月の凧揚げ、本土で将来を嘱望されていた先生が、故郷の硫黄島に戻り、大変熱心に教育してくださったことなどなど…確かにかつて、硫黄島には平和な生活が存在していたのです。
 そして、散会後、私は改めて思い知らされました。それは、硫黄島で2年余りも生活していたにもかかわらず、先の大戦の硫黄島戦史、さらに戦前からの島民の存在やその生活について、殆ど知らなかったということを。
 私たち、硫黄島にゆかりをもった自衛官は、あまりにも硫黄島のかつての歴史について無関心ではなかったか?多いに反省するべきことであり、今後に生かしていかなくてはならないと強く感じた1日でした。
 別れ際に、この集いに参加された旧島民の一人の方が、「戦前の思い出中心に続いていたこの『硫黄島関係者の集い』が、ここでようやく平成の時代につながったような気がします」と小さく呟いていたのが印象的でした。

UNDOF派遣隊員に慰問品
―滝川駐屯地・10普連―
 9月28日、滝川駐屯地(司令・西浩徳1佐)でUNDOF(ゴラン高原)派遣隊員を励ます会(代表・田村弘滝川市長)から第22次UNDOF派遣隊員へ慰問品が寄贈された。
同会は、自衛隊協力会滝川隊区連合会、滝川自衛隊協力会、滝川自衛隊充実促進協議会などで構成された会で、贈呈式には、田村市長ら関係団体の代表らが来隊し、西連隊長に目録を手渡した。
 田村市長は「些細な贈り物ですが、日本の香りを感じ取っていただきたい。地域からの声とともに隊員らに激励の気持ちを伝えてください」と挨拶。連隊長も「派遣隊員達も無事に任務に当たり、完遂を目指す中で、日頃滝川自衛隊を支えて下さる、協力会の皆さまから今回頂いた慰問品は、大変うれしく、励みになるとともに、他の隊員・他国の軍人に対しても、自慢にもなると思います。駐屯地としてもうれしく、皆さんの気持ちとともに隊員達に送ります。ありがとうございました」とお礼の言葉を述べた。

防衛ホーム 俳句コーナー
文化の日異国にありて句会して 岡野アイコ
雨音の静かに冬の来りけり 小川 淑子
日向に居日向ぼこりとまでなれず 畠中 草史
森の水車律義に廻り小六月 鈴木 芳江
波の花そこここ消えず能登荒磯 船田藤三郎
何食みて砂漠の馬の肥ゆるかと 富岡めぐみ
年の瀬の無心に鍋を磨きけり 大平 光枝
死の話ばかりになりぬ日向ぼこ 越後 小吹
帰郷して父の育てし菊を愛で 古谷 地良
甲高き鳥語しきりに御苑冬 佐藤 君子
胡麻粒を撒きたる如く鳥渡る 神谷 正紀
初冬のわが影一つ路地をゆく 安福 箭子
今日一日帯解の子のしとやかに 井上 康史
霧晴れて見慣れし景を見直せり 堀内ミサ子
人の声風となりゆく芒原 宮本 立男
嫋々と梵鐘ひびく里の秋 浅野 澄江
日向ぼこしながら廻る島の路地 渡辺 成典
真当に咲きて淋しき野菊かな 和田 一菜
時折は会話を交す日向ぼこ 山下 峰
谷紅葉散策の道行き止まり 堀内 迪男
選者吟
母に似しひとを見かけし路地の冬 保坂 伸秋
(「栃の芽」誌提供)

イラク派遣を終えて シリーズ
妻の優しさ、心遣いに感謝
空自補給本部第3補給処 3空曹 中川原 隆
 私は、第8期イラク復興支援派遣輸送航空隊において、整備隊補給係として平成17年12月20日から平成18年4月21日までの約4ヶ月間、勤務しました。補給といっても補給処業務しか経験がなく、ましてや各整備員との連携、補給小隊との綿密な調整が要求される資材統制業務をどこまでこなせるか正直不安でした。しかも、わずか4ヶ月の間に業務を掌握し、次の隊員に申し送らなければなりません。実際、過酷なミッションの中で、困難なことや、様々な環境の違いからくるストレスも感じましたが、素晴らしい上司、先輩、後輩、同僚に恵まれて、なんとか乗り切ることができました。
 派遣期間中に各国軍対抗のワールドカップ・サッカー大会(INアリ・アル・サレム)が行われました。参加国は、日本、米国、韓国、オーストラリア、クウェートの5ヶ国です。私は日本チームの主将を務めました。あとで主将になった理由を聞いたら「指名したかった選手が飛行任務等で参加できない場合があるから君にした」とか…(笑)。試合の時に陣地を決めるためのジャンケン要員みたいなもので、主将らしいことは何ひとつできませんでしたが、ハートの熱いチームメイトに引っ張られ(本当は皆を引っ張っていきたかったのですが…)、グッド・コミュニケーションで楽しみながらプレーすることができました。結果は残念ながら3位でしたが、優勝国のクウェートとは1―1で引き分けることができ、互角以上に戦えたと思える収穫の多いゲームでした。本サッカー大会を通して、各国の戦いぶりの違いを感じることができました。米軍は身体能力の高さが際立っていましたし、韓国軍は積極的な攻撃をしてきました。オーストラリア軍はほのぼのとしていてフレンドリーな感じが伝わってきました。クウェート軍は常にマイペースで淡々とした試合運びを展開していました。本サッカー大会を通して日本チームの仲間や各国の選手との交流を深めることができたことはとても貴重な経験になりました。
 アリ・アル・サレム飛行場に到着して1週間後に第2子の流産という悲しい出来事がありました。そして無事に妻の手術が終わってほしいと、遠い中東の地から願うことしかできませんでした。そばにいて支えてあげられない歯がゆさ、妻の体調が不安定な時期にストレスを与えたのは自分ではないかと自己嫌悪に陥りました。今すぐ帰国して妻の介抱をしてあげたいと思う気持ちと、「これから4ヶ月間、イラク復興のために貢献するんだ!」という思いが重なり、どうしていいかわからず、心臓が破裂しそうになった、あの苦しい気持ちは今でも忘れられません。しかし、このとき妻がいちばん辛い思いをしていたにもかかわらず、電話越しに「パパは悪くないよ。心配しないで。4ヶ月間の任務をしっかり遂行して帰国後は必ず幸せをつかもう!」と言ってくれました。そのとき改めて家族の絆の強さを認識することができました。そして妻の優しさ、心遣いに感謝しながら、「任務遂行に集中しよう!」と気持ちを切り替えることができました。
 それでは最後に、素晴らしい指揮官、上司、先輩、同僚に出会えたこと、支援してくださった多くの方々のおかげで勤務できたことに感謝して終わりたいと思います。本当にありがとうございました。

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