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   2005年11月15日号
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当選倍率9倍超える
「体験飛行」抽選会を実施
 平成17年度自衛隊記念日行事の一環として12月4日に空自入間基地で開催される「自衛隊体験飛行」の抽選会が11月7日、空幕会議室で行われた(=写真)。
 抽選は、内田雅寛空幕総務部長、西野哲空幕広報室長によって、また、所谷尚武・防衛ホーム新聞社社長代理、中島毅一郎・朝雲新聞社社長が立会して厳正に実施された。
 今回の公募数は、C-1輸送機が460名、CH-47大型ヘリコプターが540名の計1,000名で、9月28日から10月31日までの公募期間中に往復ハガキ4,782枚、9,288名の応募があり、平均倍率は9.3倍(C-1が10.4倍、CH-47が7.7倍)だった。

シリーズ イラク派遣を終えて
空自第1輸送航空隊 第401飛行隊
3空佐  濱島 洋一
 私は、今年の3月中旬から7月の中旬までの間、第6期イラク復興支援派遣輸送航空隊の一員として、昨年に引き続き2回目の勤務をしました。我々の派遣されたクウェート国アリ アル・サレム空軍基地は、クウェートの街から約50qほど離れた、まさに砂漠のまっただ中にあり、周囲を見渡しても砂漠、地平線しか見えません。7月には屋外にいることが苦痛になるほど気温が上昇(私が体験した屋外の温度は最高53℃)し、湿度も5%以下ととても厳しい砂漠の地でした。そんな中で余暇の時間を充実させるため、ある隊員は体力向上のために基地内にある米軍のアスレチックジムへ通い、ある隊員は資格取得のための勉強、ある隊員は家族とのコミュニケーションを図るためにパソコンに向かいメール等、各々工夫していました。
 私は、米軍が実施しているミッドナイトランと呼ばれる午前0時に出走する5q走で、3位までの入賞者しかもらえない特別なTシャツをゲットするため日々基地外周のジョギングに励みました。深夜にまで走ろうとする人達は、日頃から鍛えていて、その中で3位までに入賞するのは非常に難しく、かなりの努力が必要でした。更に高温低湿度でのジョギングは10q以上走り続けても汗をかかない(本当は汗をかいた瞬間に乾いているのです)、水を持たずにジョギングするのは自殺行為に等しい等、日本でのジョギングといろいろな面で異なり非常に過酷なものでした。私は、走り出す前にTシャツと帽子を水が垂れるくらいに濡らし、十分に冷やした水を持って高温低湿度対策をとり、ジョギングをしていました。しかし、30分もすればTシャツ、帽子は完全に乾燥し、ペットボトルの水もお湯に変わってしまいます。湿度の低さは、帰国後小牧の高湿度下でのジョギングを気持ちがいいと感じさせるほどでした。
 順調に入賞に向けトレーニングしている私に、大変困った問題がありました。1年前の1回目の派遣の際は、クウェートのホテルの作る食事を食べていました。そのときは中東の料理が合わず何もしなくても自然にダイエットすることができましたが、昨年の7月、隊員食堂が完成し、日本料理を食べることができるようになりました。この食堂は日本人のシェフが工夫し、とてもおいしい料理を作ってくれます。このため、つい食べ過ぎてしまい、健康維持(体重維持)のために、私のジョギングの距離を更に延ばさなければならなくなりました。
 ミッドナイトランの結果ですが、日本人シェフのおいしい料理のおかげで本人の意図とは別に走行距離が延び、ミッドナイトランわずか3回目の挑戦にして特製丁シャツを手にすることができました。更に、病気一つすることなく無事に帰国することができました。
 最後に多くの皆様の暖かいご支援、ご声援のお陰で砂漢の厳しい環境での困難な任務を終了し、第6期要員全員が元気に帰国することができたことをこの場をお借りして心よりお礼を申し上げます。

<彰古館 往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
日露戦争の記録(2)
〈シリーズ46〉
 戦場において負傷、そのほかの理由によって戦闘行為を継続することが出来なくなった場合、敵に投降して捕虜になるという選択肢があります。捕虜の処遇はジュネーブ条約に規定されていますが、日露戦争(1904〜1905)はハーグ条項が締結されてから初めての国家間の戦争です。捕虜に対する処遇も日本が初めて世界に手本を示すことになったのです。
 軍事医療の史料館である彰古館は、医療という限られた側面から見た記録ですが、日露戦争における捕虜の史料が現存しています。
 当時、部外秘扱いだった「明治三十七・八年戦役陸軍衛生史第一巻衛生勤務」の第二十三扁には「俘虜(彼我共)」の項目があります。
 これによると戦役中の捕虜の総数は79,367名で、戦地で解放した5,506名と戦地で死亡した1,453名を除いた72,408名が国内29箇所の捕虜収容所に収監されています。収監後にも衛生部員など114名が解放され、収監中の死亡者は373名、主としてポーツマス条約締結後の脱走者は119名、帰国の途に就いた捕虜の総数71,802名なります。
 有名な松山捕虜収容所については、一般に多くの文献が残されています。将校には従卒が付き、家族を本国から呼び寄せることも出来たとか、道後温泉に一泊外出が出来たとか、その優遇処置は「マツヤマ!」と叫びながら投降するロシア兵の姿が伝聞されていることが象徴するように、国際的な基準から見てもかなり優遇されたものでした。
 彰古館に現存する「松山捕虜収容所衛生業務報告」によると、松山捕虜収容所に収監された捕虜は2,163名、何らかの疾病や戦傷を受け、収容所病室で治療を受けた患者数は延べ4,299名で、その内の治癒が3,872名(90%)、死亡95名(2.2%)という数字が残されています。
 戦傷病者を含む収監者に対するデータとしては、衛生管理が行き届いていた結果だと考えられます。
 戦傷者に対する優遇処置で特に目を引くのが捕虜に対する「恩賜の義肢義眼」の下賜です。
 聖恩の賜物として、国家に貢献した者への賜物が恩賜です。敵兵に対して恩賜というのは奇異な印象がありますが、照憲皇后は赤十字精神の視点から「国家に殉じて手足を失ったのは敵も味方も違いはない」と下賜したものです。その告示には「汝ら祖国のため勇戦し、身に創傷を蒙り、俘虜となり、収容せられ、充分なる治療を受けたるも遂に不具の身となれり。慈仁なる我が皇后陛下は深く汝らの憫然に思召され、今回義手義足、或いは義眼等を賜る」とあります。
 これに感激したロシア側からは「我ら露国軍人は博愛仁慈なる皇后陛下より義眼義肢の無上の御下賜品に辱し赤心以て感謝の意を表彰す。皇后陛下が我ら一兵卒にまで大御心を悩まし給うこと感泣の至りに堪えず。我らは皇恩厚きを奉戴し終生忘れざらんことを誓う」と述べています。
 こうして敵国人でありながら、義肢95名、義眼18名が恩賜を賜ったのです。
 知られざる衛生裏面史は、まだ彰古館に眠っています。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
第四キャッシュビジネス株式会社  進藤 忠
進藤氏は平成13年、新潟救難隊を准空尉で定年退職。57歳
 バブルが崩壊して10年、雇用情勢は長引く景気の低迷で、企業側のリストラ等が相次ぎ、かつてないもっとも深刻な状況の中、新潟救難隊援護室の紹介により「第四キャッシュビジネス株式会社」に就職できたことに、関係者の皆様に改めて感謝を申しあげます。
 当時は、求人数もその影響を受け大幅に減少し、再就職に当たり援護担当官と幾度となく話し合いを持たせて頂いたことがつい昨日のことのように思い出されます。
 さて、弊社を紹介させて頂きますと、第四銀行関連会社として設立され、本社総務部、本社精算部、資金センター部、自動機センター部及び5事業部から成り、私は、本社精算部に配属され、現金精算処理業務に従事しています。仕事の内容は、受付、精算、入力及び伝送などが、一連の連携作業になりており、一人ひとり正確、確実な作業が要求される仕事です。従って、当初、共通の達成感やチームワークに戸惑いも感じましたが、仕事にもなれ、楽しく、明るく、元気よくやっています。
 特に、金融関連企業として、危機管理には厳しく、コンプライアンス(法令順守)、セキュリティ管理など、自衛隊で培った知識が活用でき役立っています。
 また、規則類等も整備されており、福利厚生も充実、日常生活では、入社して始めたゴルフ、連続休暇(七日間)を利用して、旅行などを楽しんでおります。
 これから定年を迎える皆さんに、下準備は「現役」のときから、定年後は何のために働くのかを考え、希望、適正、動機及び生活スタイルなど自分のアピールポイントがわかれば、就職活動もスムーズに進むはずです。
 第二の人生、一人ひとり生活設計が異なります。他人との比較や急ぐ必要はないと思います。定年は「終点」ではありません、「出発駅」ですから。
 最後に、今なお、厳しい雇用条件の中で頑張っておられる援護関係者に感謝しつつOBの一人としてかげながら援護射撃できればと思っています。

〈お詫び〉大人気の「防衛ホーム英語教室」は、紙面の都合により今号は休載し、次号に延期させて頂きます。読者の方々に改めてお詫び致します。(編集部)

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