防衛ホーム新聞社・自衛隊ニュース 防衛ホーム新聞社 防衛ホーム新聞社
   2005年2月15日号
1面 2面 3面 5面 6面 7面 8面 9面 11面 12面

<寄せ書き>
イラク派遣所感
さしのべた手、平和育てる手
復興支援に参加して
<上富良野>
第2次イラク復興支援群 1陸尉  大藏 晋
 イラク戦争をニュースで追っていた際は、自分が彼の地に赴くことになるとは想像もしていなかった。
 私は、通訳幹部として本活動に参加した。サマーワの人々や多国籍軍の将兵達とは毎日のように接することができたので、海外任務の醍醐味を味わうことができたのは幸いであった。
 イラクでの日々を振り返ってみると、単なる日常も大変な密度であった。というよりも、単なる日常というのが1日もなかった、というのが実感である。日々新たな発見があり、色々なことから刺激を受けた。数多くの貴重な経験を一刻も早く消化し、それを教訓として日々の隊務にフィードバックしていきたいと思う。
 今後は、想像もできないような土地で、想像もできないような任務に就く機会が激増するだろう。しかし、我々はどのような任務であれ完遂することができるということを確信できた。
 復興支援群の頼もしい同僚達と過ごす中で日ごと強くなった思いである。
第2次イラク復興支援群 1陸曹  村井 秀明
 私は、第2次支援群整備小隊の無線機器整備陸曹として参加しました。
 5月8日に出国し、約3ヶ月半の任務を無事遂行できたのも駐屯地の皆様と家族の励ましと復興支援で一緒に汗を流した仲間のお陰と思っています。
 日本では、経験できない色々な貴重な経験をしましたが、特に文化交流で現地の小学生たちと七夕飾りを作ったり、和太鼓の演奏を被露できたことは、私たちを理解してもらうのと現地の人との交流に大変役立ちました。
 こつこつと地道に当たり前のことを行い、円滑に業務を遂行することが縁の下の力持ちである整備員の誇りでもあると思っています。なかなか檜舞台に上がることがありませんが今回は、同じ業務でも大変名誉なことをやり遂げた気持ちで一杯です。
 最後に群長が「君たちは戦友であり、私の誇りです」と言いながら、一人ひとりに握手して私たちを見送ってくれた時は、感激で涙が流れていました。
 今回は、「人に尽くしてこそ、自分の生命が開花するんだ」という事と、人生の中において一番の敵は「自分自身」であり、良くなるのも悪くなるのも自分の行動である事を学びました。「心こそ大切なれ」これを肝に命じ、日々前進の気概をもってこれからも精進したいと思っています。
第2次イラク復興支援群 1陸曹  植松 毅
 私は、第2次イラク復興支援群の一員としてイラク南部サマーワ宿営地において、整備員として勤務することができました。この3ヶ月間は、私にとって大変貴重なものとなり無事任務を達成し帰国することができたことは、私個人の力ではなく多くの人たちの支えがあって初めて成し遂げられたものだと思います。
 昨年、私の希望により派遣要員に選ばれてから、準備訓練及び出国から帰国までの長い期間に亘り多数の方々の支援を受けました。特に準備訓練・出国及び帰国行事において11師団を主力とする真駒内駐屯地の隊員の皆さん、今回の派遣により私の不在間家族を支援して頂いた中隊長を核とする支援チームの皆さんなど数えたらきりがありません。
 派遣隊員が注目される中このように陰で支えてくれる人達がいて、初めて任務を達成できることを改めて認識した次第です。私も今回得たものを今後も派遣隊員の皆さんに伝え任務達成のサポートをしていきたいと思います。
<神町>
第4次イラク復興支援群 3陸曹  渡辺 研二
 日本を出国して、当初クウェートまで移動、クウェートからキャンプバージニアに入りました。砂漠地帯ということで、ある程度の土地の状況は予想していましたが、生まれて初めて見る本当にほとんど緑がない見渡す限りの砂漠地帯に正直驚いたと同時に、日本はなんて緑に恵まれた国なのだろう、と思いました。
 キャンプバージニアで慣熟訓練を終え、いよいよサマーワ入り、移動間、教育で聞いていた通りたくさんの人たちが手を振ってくれます。子供にいたっては本当に屈託のない笑顔で手を振ってくれていて、それを見てこの子供たちに復興支援活動を通じて、平和であることのすばらしさ伝え、また、イラク復興の手助けを少しでも多くできたらいいなと心に思いました。
 サマーワ宿営地に到着、これから3ヵ月間の復興支援活動が始まるわけですが、群長の言葉にもあったように1、2、3次隊と受け継がれてきたバトンをしっかりと5次隊に渡せるよう、また、防衛庁長官の言葉にあったようにイラク国民に対する平和のメッセンジャーとして、支援してくださる皆さんの期待に応えられるようがんばりたいと思います。
第4次イラク復興支援群 1陸曹  庄司 俊美
 第4次イラク人道復興支援群施設隊の一員としてサマーワに来て、普通に日本と同じ衣食住が心配なく出来る事にびっくりしました。
 ここまで快適になるまでには1次から3次群、特に1次群の苦労があっただろうと推測されます。何もないところから現在のサマーワ宿営地を作ってきた先人達に感謝します。物資についても現在生活する上で十分ではありませんが生活を維持出来る分はあると思います。私の仕事は補給係です。日本と違い物資がすぐに手に入らないという事がありますが「有る物は有る、無い物は無い」という事で物品を大切に使用させることに着意し、隊員の要望に少しでも応えられるように知恵を絞り工夫し、年の功を活かして淡々と任務をこなせればと思います。

「頑張っています」 新しい職場
活躍する0B シリーズ
常に前向きに努力を
(財)茨城県薬剤師会公衆衛生検査センター  中柴 勝幸
中柴氏は平成15年、第7航空団(百里基地)を空曹長で定年退職。55歳
 私は援護室の紹介で、当センターを紹介され、入社に至りました。入社3ヵ月前に部隊のご配慮により研修期間をいただき、職務内容を知ることができました。
 私の配置先は総務部業務推進室です。業務内容は主に水質検査、作業環境測定、食品衛生管理検査、煤煙測定など現境にやさしい仕事です。
 最初はペアで県内保健所の井戸水検体、食品検体の回収、市町村水道課、生活環境課の採水及び回収です。その他、民間会社の採水等県内全域くまなく車で走っています。
 失敗も多く会社に迷惑を掛けました。特に、回収した検体に番号を付ける作業には本当に苦労しました。また、煤煙測定では炎天下連続1週間ボイラーの釜の上での測定作業には参りました。これが会社の厳しい現実だと身をもって感じた次第です。考えていた以上に大変で、その当時はいつ辞めようかと思ったりしていましたが、いざ辞めるとなると、その職場での自衛隊に対する評価が下がるので、またせっかく紹介してくれた援護室にも多大な迷惑をかけることになるので、ここは、後輩や自衛隊のためにもふんばり、また自衛官を採用してよかったといわれるよう、常に前向きに努力していきたいと覚悟を決めました。
 後輩の皆さん、一般社会の厳しさをよく考えて自分にあった仕事を選択されますことを望みます。再就職にあたっては資格取得以前に自衛隊で得たノウハウと信用を持っているからこそ、会社で仕事をさせてもらえるわけです。ひとつ言える事は、どこの職場でも周囲の仲間と和気あいあいと、気分よく仕事ができていない人が定年後就職を希望しても、困難をきわめると思います。その延長線上に、新しい付き合いが始まるので、今の自衛隊の仕事を通して意識改革し、第2ステージへ望みたいものです。
 最後になりましたが、百里基地飛行群、援護室の皆さんには大変お世話になり無事に退官、再就職できたことを心から感謝申し上げます。

<京都地連>
「息子をイラクに送って」
留守家族・堀口 晋
 息子がイラクへ行くことになるかもしれないと旭川から電話をくれた時には、先ず「命令」か「希望」かと尋ねた。すると本人は今後の勉強の為に「志願」と言ったことを覚えている。それから暫くして早朝に電話があり、家内が受けたところ、家族の皆、パスポートはあるかと尋ねてきた。「一応、皆持っている」と答えると「そう」と言ってそれで電話は切れた。
 家内が何か「不安に思う」と夜にこちらから電話を入れて確認したところ、「まだ分からないけれど」との事、「もし行くとしたら賛成か反対か」と聞くので、家内は戦いに行くのなら反対だが、人道復興支援なら賛成(これは本人の意思を尊重)との応えをした。
 その後、ニュースや新聞で「イラク」と聞いたりすると何か耳や目が反応するようになり、出来るだけ詳しい情勢が分かればと気になりながら日はどんどん過ぎていく。そのうち、第2師団の部隊からも書類が届き出し、10月頃だったか、ほぼ行く事になったようであったが本人はまだハッキリ決まったとは言えないのかボカシたような言い方で終始した。
 そのような折、11月にはイラクへ日本から派遣されている外交官2名が凶弾に倒れたとのニュースに大きな衝撃を受けた。イラクのためにと思い活躍をされている人々をこのような形で攻撃する過激派なる武装勢力に屈する姿は決して許されるものではないと思われるが、「無理が通れば道理が引っ込む」世の中、全体の風潮には根本的に何かが狂っているのではないかと思う。
 さらに、12月に入って、とうとう派遣が決定となり北海道の部隊から大きな封筒で書類が送られてくるようになり、京都地連の方からも留守家族への説明会が伊丹駐屯地であるからと連絡を受け、伊丹まで夫婦で連れて行って頂き、説明を聞いた。当初は初めての事で何もわからず、マスコミの報道のみを、鵜呑みにするような、どちらかと言えば、悪い情報ばかりが溢れて、真実がどうかといったことがまるで、一般には入らない中で、「劣化ウラン弾の被爆等が不安で」と質問などもさせていただいた記憶がある。
 本人から派遣に関しては、大丈夫だと言う電話があり、訓練もさほどキツイものではないとかの内容で、サラリと受け答えする様子に、こちらも安心感がありそれ程心配せずに、なるようになると思うように心掛けた。人様から言われるほど、何も大層に思うことなく私たちは平静で居られた。
 とは言うものの、その裏では、神仏に頼るしか私達には出来ないので、アラブの人たちと私達日本人、否、人類は皆、生命においては一緒であるとの思いで毎日の無事を祈り続けている。これは我が息子に限らず、自衛隊の方々全員の事である。理想ではあるが世界人類平和に暮らせる日々が訪れる事を祈ってやまない。
 いよいよ、隊旗の授与式が2月1日に内閣総理大臣はじめ多くの閣僚の方々が列席のもと厳かに行われ、私達夫婦で出席させていただき感激した。
 暫くして、第1波が出国、刻々と、我が息子の出国が近づいてきて、第1波の方々の様子が報道されると食い入るようにテレビや新聞を見ていた。ついに平成16年3月21日の第3波の出国になり、少しでも息子が映るかと親バカでテレビを見るが、主たる人のみで直ぐ場面が変わり見る事はなかった。
 派遣されている間には、旭川・伊丹・地連の各方面から至れり尽くせりの情報や連絡をお受けして誠に有り難く感謝に耐えない。
 その間は本当に安心して自衛隊の組織にお任せしておれた事に深く感謝申し上げる。
 本人からも何回か電話やメールが届き、本当に8千5百?qも離れている遠いイラクの地にいる感覚がせず(いつも実家にはいないので)旭川にいるような感じだった。途中一度テレビ電話を、わざわざ地連に設置していただき、本人との会話をさせていただいた事は印象深く思い出される。
 さて、月日は経ち、5月24日には旭川空港に到着するとの事で、私ども家族3人で出迎えに行き本人に面会出来て無事を悦び合った。
 本当に異国での生活、整備、防備、仕事等真黒に日焼した顔・顔・顔の皆様の様子は晴れやかで、さわやかな感じを受け、家族の方々も安堵と嬉しさで一杯の雰囲気だった。

11面へ
(ヘルプ)
Copyright (C) 2001-2008 Boueihome Shinbun Inc