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   2005年2月15日号
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療養施設に雪灯籠を寄贈
<弘前駐屯地曹友会>
 弘前駐屯地曹友会(会長・石田進一曹長)はこのほど、駐屯地近郊にある療養施設「千年園」で雪灯寵を製作、寄贈した=写真。
 雪灯籠製作は、1昨年曹友会で同園の夏祭りにボランティアで参加した際、入園者のほとんどが車イス利用者のため、弘前公園での雪灯籠まつりに行くことが出来ないとの事情から始まり、今年で3回目となる。
 今年は、石田曹友会長以下8名の会員で縦2メートルの雪灯籠を2基、大小の雪だるま5体と岩木山をかたどったミニかまくら5個を作成した。1月19日に型枠に雪つめ作業をし、雪の固まった21日に削りの作業行い、最後に灯籠にねぷた絵をはめ込み完成した。
 夕刻になり灯寵とミニかまくらに灯がともされると、入園者らは赤々とした灯火を眺めて笑顔を見せていた。

自殺予防 Q&A
防衛医学研究センター 高橋祥友
〈第11回〉
群発自殺(第2、第3の自殺を予防する)
 Q:他と比べて、ある特定の職場で自殺が多発する現象について耳にした。これは単なる偶然か、あるいは特別な理由があるのか?
 A:1986年4月にアイドル歌手の岡田有希子が自殺し、マスメディアがこの事件を大々的に報道した。すると、その後約2週間のうちに、30数名もの未成年者が自殺した。それもほとんどが歌手と同じく、飛び降りという手段を用いた。1986年はその前後の年と比べて、未成年者の自殺件数が約4割も増加してしまった。
 このような現象は専門用語で群発自殺と呼ばれている。前述したような大規模な群発自殺はたしかに稀だが、より小規模な群発自殺は、職場、学校、病院、地域などで起きている。これは単なる偶然ではなく、心理学的に説明できる現象である。青少年ばかりでなく、成人でも大きな影響を受ける。
 潜在的に自殺の危険の高かった人が、他者の自殺について知った結果、それに自己を同一化させてしまい、一挙に危険が高まる可能性があるのだ。
 他者の自殺に影響を受ける可能性のある人には次のような特徴が挙げられる。
 *故人との絆が強かった。
 *精神疾患にかかっている。
 *これまでに自殺を図ったことがある。
 *第一発見者。遺体を搬送した。
 *故人と似た境遇にある。
 *自殺が起きたことに責任を感じている。
 *葬儀でとくに打ちひしがれていた。
 *知人の自殺が生じた後、態度が変化した。
 *自分自身もさまざまな問題を抱えている。
 *サポートが十分に得られない。
 自殺は、病死や事故死以上に、遺された人々に深刻な影響を及ぼす。当初、気丈に振舞っていたように見えた人でも、その後、うつ病やPTSD(心的外傷後ストレス障害)にかかって、本格的な精神科治療が必要になることさえある。そして、最悪の場合は、群発自殺が起きてしまう危険性もあるのだ。
 全力を尽くして、自殺を予防することは当然である。しかし、万が一、不幸にして自殺が起きてしまったときには、第2、第3の自殺を予防するためのケアが必要になる。現在、自衛隊が行っている自殺のアフターケアも、このような趣旨から実施されている。

<彰古館 往来>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
〈シリーズ37〉
赤十字条約と芳賀軍医
 日露戦争時、芳賀栄次郎軍医は第二軍第五師団軍医部長でした。明治38年(1905)3月10日、奉天守備の任に就き第五師団が入城した折、一人の看護卒が遥か遠くの屋根に翻る赤十字の旗を見つけました。それはロシア軍の遺棄した東部西伯利亜赤十字管区付属病院でした。
 早速調べてみると800名程の負傷者が残置され、我が軍兵士も6〜70名が収容されていました。芳賀軍医は歩哨を立て、病院には指一本触れさせないように全軍に伝達します。その他に近郊の陸軍病院や、付近の農家などに収容されている患者を含めると、その数は1,500名にも及びました。
 翌日から治療を開始すると、ドイツ赤十字班から派遣された職員の中に、芳賀軍医のドイツ駐在中の知人の医員の姿も多くあり、奇遇を喜び合い、治療の一部は彼らの継続治療を許可して喜ばれました。
 芳賀軍医は病院勤務の職員に対して俸給を与え、自軍の食糧難の中、肉や良質なパンなどの給食を支給し、各国の見学武官とロシア軍捕虜に対し、日本の大国としての威厳を示したのです。
 ロシア軍捕虜は安堵すると「本国への帰還に当たって、自軍への最短距離である最前線を通過するコースを採りたい」と要求します。非戦闘員の彼らは、営口に後送して船で帰国させるのが妥当です。我が軍の陣地を通り、敵味方の対峙する最前線を抜けて敵国に帰還させることは、軍事機密上許可出来ないと却下しますが、ロシア軍副病院長のグチコフは赤十字条約の「前線の通過は指揮官の判断による」という条項を盾に要求を取り下げません。更に受け入れられなければ世界中にこのことを打電すると脅しをかける始末。世界の注目を集めている日本の立場もあり、師団長と芳賀軍医は苦渋の選択を迫られることになります。結局、英断を持って前線通過の許可を与えます。更に副病院長は移動に当たって500両の荷車を要求しますが、自軍にもそれだけの数の車両は保有していません。かき集めた馬車30両と乗馬10頭を与えます。陸軍としても最大限の優遇処置でした。5日間の行程では、疲れ切った我が軍将兵が寝る場所も確保できないでいる中、宿泊施設も食事も、全て用意されたのです。
 これらの業務の最終段階は、上級部隊の第二軍軍医部長の森林太郎が引き継いだため、陸軍省医務局の公式文書は森軍医部長の手柄とされ、芳賀軍医の業績は史実には残っておりません。
 数年後の万国赤十字条約改正会議で、かつて芳賀軍医の恩恵を受けたグチコフが委員として会議に出席しており、この話が紹介されます。彼は、多数の入院患者を無事に本国に帰還させた功績によって、後には陸海軍大臣にまで昇進したのです。芳賀軍医は「時の勢いに乗り得たのであろう」と述懐しております。
 およそ、赤十字発足以来、誰も経験したことが無い、それまで有名無実だった条項を初めて実行に移したのが芳賀軍医なのです。
 彰古館には公式文書以外にも、歴史に埋没した一軍医の臨機応変の活躍の記録が所蔵されています。

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