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   2005年1月15日号
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イラク看護士10名が研修
―自衛隊中央病院―
 自衛隊中央病院は11月8日から11日の間、「国別研修・イラク・ムサンナー県看護協力プログラム」の一部を担当し、現地看護師10名(男性9名、女性1名)に対し実務研修を実施した(写真)。この研修は、10月26日から12月3日までの間、独立行政法人国際協力機構(JICA)が招聘し、財団法人国際看護交流協会が事業委託した研修で、JICAのブリーフィングに始まり、当院を皮切りに国立国際医療センターや、11個病院などを順次研修、最後にアクションプランの発表・評価会を行った。
 中央病院での主な実務研修の項目は、「(1)看護業務の概要、(2)看護に共通する基本的な看護技術(バイタルサイン・記録・注射)の実際と教授法、(3)新人に対する教育の実際と感染制御看護の教授法について」を主に看護部と高等看護学院が担当し実施した。この研修では、座学のみでなく病棟実習や模型を用いた注射実技の実習などを行い、また、自衛隊札幌病院より中竹美由紀1陸尉(第2次イラク復興支援群看護チーム長)を招いて、現地での衛生状況について情報提供や研修協力をしてもらった。 
 研修最終日はラマダン明けに当たり、イスラム教に配慮した手作りの「さよならパーティー」を開催した。研修者代表からは「サマーワに復興支援に来られたおりには必ず声をかけてほしい」との挨拶があり、相互に理解を深める機会であった研修を終了した。

自殺Q&A
<第10回>
自殺の危険の高い人に対する治療
(3本の柱を組み合わせて)
Q・・自殺は覚悟のうえでの行為だと思う。自殺を予防することなどできるのだろうか?
A・・死ぬ意志が100パーセント固まっている人などいない。むしろ、最後まで「死にたい」と「生きたい」という気持ちの間を激しく揺れ動いているというのが現実である。
 自殺にまで追いつめられている人の大多数(9割以上)は何らかのこころの病に該当する状態に陥っている。うつ病とアルコール依存症だけで、自殺した人の生前の診断の半数に当てはまるほどなのだ。自殺は覚悟のうえで、自由意志によって選択された行為と広く信じられているが、むしろ、さまざまな原因で追いつめられ、強制された死と考えるべきである。自分の置かれた難しい境遇に対する解決策は、自殺しか残っていないと確信しているのだ。
 自殺の危険の高い人に対する治療には次の3本の柱を組み合わせていく。
 「心理療法」・・問題を抱えたときに、自殺といった適応力の低い解決策に打って出てしまう傾向に働きかけていき、時間をかけて、解決の幅を広げていく。
 「薬物療法」・・大多数の例ではこころの病のために自殺の危険が生じている。こころの病がある場合には、それを治療する薬を使う。今では、副作用も少なくて効果の上がるさまざまな薬がある。
 「周囲の人々との絆の回復」・・自殺の危険の高い人というのは、しばしば自分から周囲の人々との絆を断ち切ってしまい、自ら孤立を招く傾向がある。したがって、家族、知人、同僚といった周囲の人々との関係を再構築していく必要がある。
 以上の3つの柱を組み合わせて、粘り強く働きかけていくことによって、自殺の危険を乗り越えていく。本人だけを相手にしても不十分である。家族、知人、職場の人々の協力を得なければならない。多くのエネルギーも時間も必要になる。
 また、自殺の危険はたった一度だけで終わるというのは稀で、むしろ、繰り返しそのような危険が襲ってくることを想定したうえで、ケアをしていかなければならない。

彰古館往来
<シリーズ36>
陸自三宿駐屯地・衛生学校
小銃弾薬の制定と軍医
 小銃は、最も軽易な携行火器です。軍の創生は「小銃弾薬の制定」から始まるのです。その国家の命運を賭けた大事業に、軍医が参加していると言うと、奇異な印象を持たれることかと思います。
 1890年代、それまで11mm以上の口径の弾薬を使用していた各国は競って8mm前後の弾薬を採用します。世界で初めてこの小口径弾の洗礼を受けたのが、日清戦争(1894〜1895)時の日本兵で、これを治療したのが第五旅団第二野戦病院付きの芳賀榮次郎軍医大尉でした。芳賀軍医は、21万字にも及ぶ「小口径弾薬について」という論文を発表し、更に自らドイツ語に翻訳して、欧米にも初めての臨症例を紹介したのです。その中で小口径弾薬を「人道的な弾」と位置付けています。弾丸の初速が速いためその多くが貫通銃創となり、予後の経過が良好な事からの結論です。
 当時の陸軍でも、口径11mmの十八年式村田銃から口径8mmの二十二年式村田連発銃へと、装備を改変している最中でした。
 列国の小口径化の趨勢が8mm級を選定する流れの中で、陸軍は6.5mmという、更に小さな弾薬を採用します。採用時から威力の低さを指摘されていましたが、弾道特性に優れ命中率の高い三十三年式実包の優秀さによって「問題ない」と一蹴されたのです。
 当時の軍上層部には「無益な殺生は、その本意にあらず。戦闘力を失いしむれば、即ち足る」と言う武士道精神にも通じる考え方がありました。これは「負傷者を運び、治療し、介護し、食事を作るなど、敵は1人の負傷者に対して多くの人員を割かなければならない。即ち敵の戦力を削減する」というものです。
 この殺さずに怪我をさせると言う「さじ加減」を決定するのが、新型弾薬の審査に立ち会った軍医の役目だったのです。
 明治37、8年(1904、5)の日露戦争で、三十年式小銃は開発初期の欠陥と満州の過酷な使用条件による不備が露見し、改良されながら量産されます。それらの欠点を全て克服して制式となったのが有名な三八式歩兵銃です。明治40年(1907)に、三八式実包として改良された新弾薬の採用試験に芳賀軍医が立ち会い纏めた報告書が彰古館に現存しています。
 その後、第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、大東亜戦争と全ての戦場で活躍した三八式歩兵銃でしたが、昭和14年、殺傷効果と弾道特性を追及した7.7mmの九九式小銃が新たに制式となります。
 第一次世界大戦以降、既に欧米では戦場での武士道精神などは通用しない時代になっていたのでした。この事実に日本が気付いた時には、三八式歩兵銃はとっくに時代遅れとなっていたのです。
 三八式歩兵銃は優秀な弾道特性によって、メキシコ、ノルウェー、フィンランドといった諸外国に輸出し好評を博しました。アメリカやノルウェーでは需要に応えるため、驚くべきことに今でも三八式実包が生産されているのです。小口径弾を推奨した芳賀軍医の目に狂いは無かったのです。

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