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   2004年6月15日号
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寄せ書き
広報官をやっていて本当に良かった!
茨城地連 日立出張所 陸曹長 石井敏明
 今春の4月7日、第12特科教育隊(宇都宮)において新隊員入隊式が行われました。私が所属する日立出張所からは2名の優秀な学生が入隊しました。
 着隊してからまだ10日も経っていないのに、彼らの節度ある態度・行動はまるで別人のようでした。式に参加した私も、驚きと満足感で胸が一杯で思わず目頭が熱くなってしまいました。ご家族の方々も数日ぶりの我が子との対面で、ついこの間まで学生服だったのが凛々しい制服姿に変身、その容姿を見て「立派になったな」と涙ぐむ場面もありました。
 式典が終わり、隊員とご家族との会食では、隊員が久々に会う親御さんに甘えているようなほほえましい姿も見受けられました。彼らが実家に帰省した時にどのような姿に成長したか、またどのような激励やアドバイスをしようかと、私も今から楽しみにしております。
 私も今から20数年前、初めてのゴールデンウィークで実家に帰省した時の事を思い出しました。当時、両親や兄弟に自衛隊の教育内容や体力検定について誇らしげに話した事が昨日のように思い出されます。
 広報官として、学生が受験・合格・採用・入隊するまでの道先案内人となる訳ですが、彼らが自衛官となり、立派な1人前の姿を見た時が1番「広報官をやっていて本当に良かった!」と実感できます。

事務官から自衛官へ
岐阜地連 中村有紀
 私は、岐阜地方連絡部で事務官として勤務し、4月に曹候補士として海上自衛隊に入隊します。海上自衛官になりたいというおさえ切れない気持ちの中での新たな挑戦の結果です。2月26日・27日に、岐阜地連計画の入隊予定者の部隊研修に参加する機会を得て、横須賀教育隊と横須賀潜水艦基地隊を研修することができました。
 横須賀教育隊に到着すると海から吹く風がすごく、吹き飛ばされそうになりながら教育隊内を見学しました。短艇を漕ぐ時に使用する櫂を持って重さを体験したり、ススで真っ黒になっている防火訓練の場を見学したりしました。その後、海桜館(婦人自衛官教育隊舎)・海志館(自衛隊教育隊舎)を見学。床がピカピカに磨かれており、教育隊の厳しさを感じました。
 翌日は、潜水艦に乗り込み見学。記念撮影をして、横須賀潜水基地隊の食堂では金曜ならではのカレーを食べ、とても豪華な献立にお腹も気持ちも大満足しました。最後にアメリカやフランスの艦船を見ながら、米軍基地を1周しました。
 2日間、たくさんのすばらしい経験ができました。私は事務官として自衛隊に入るまでは、自衛隊というものに全く関わりが無かったので全てが生まれて初めて見るものばかりでとても感激しました。この経験を生かし教育隊で精一杯頑張っていきたいと思います。横須賀で協力して頂いた方に御礼申し上げます。ありがとうございました。

「頑張っています」 新しい職場
活躍するOB シリーズ
防衛弘済会(陸自霞ヶ浦駐屯地)  森山 政美
(昨年3月、航空システム通信隊を3空佐で定年退職。54歳)
 部隊の皆様に多大なご迷惑をかけながらも平成15年3月、市ヶ谷を最後に無事退官できましたことを心から感謝申し上げます。
 市ヶ谷基地援護室や部隊の皆様のご配慮によって防衛弘済会にお世話になり、早くも1年が過ぎ去りました。
 再就職につきましては、現役時に電気関運の資格を取得していましたので、厳しい雇用情勢を承知の上で、何としても施設の保守管理業務をやりたいと考えていました。そのため、援護室の皆様には多大なご迷惑をおかけしましたが、運良く防衛弘済会で雇っていただくことになった次第です。
 防衛弘済会は、隊員の皆様の福利厚生に寄与させていただくための財団法人であり、その一部に基地施設や宿舎の施設管理業務があります。私は現在、陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地内の中央監視室で、駐屯地業務隊隊員の皆様のご支援・ご配慮をいただきながら、高圧電気設備やボイラー設備等の運転状況の監視業務をさせていただいています。勤務員は、電気工事士をはじめボイラー技師や冷凍機械、それに電気主任技術者などの資格をもった4名が日勤と夜勤を交代で従事しています。
 しかし、単に監視業務と申しましても、その対象機器の数は多く、電気設備ひとつ取っても、電力会社からの引き込み線から始まり、変圧器、母線、コンデンサなどやそれらを保護する保護継電器、遮断器、断路器などなど、多種多様な機器があり、数多い建物毎に、かつ広範囲にわたって分散しているため、監視盤でのみしか理解しておらず、未だに実物がどこにあるか解らないものもある始末で、正に悪戦苦闘ています。
 定年後の再就職には、健康が何よりも一番大切ですが、資格を有することも強みであり、特に希望する職種に関連する資格を多く取得することをお奨めします。それには、少なくとも定年の5年ぐらい前から、任務に支障を来さない程度に準備しなければなりません。取得の困難な資格であれば尚更かと。
 最後に、実務経験が決して豊富とはいえない我々に対して暖かいご支援とご配慮を頂いている霞ヶ浦駐屯地の皆様に重ねて深謝しつつ、僅かでも部隊のお役に立てるよう鋭意努力していきたいと考えています。
 更に一旬、「階級章、外せばただのジジイなり」、実感!(元エーモン3空佐)

回想の70年代音楽 31
私が会ったアイドル歌手
 私は幸運なことに、これまでに2回、昭和の音楽史(言い過ぎ!?)に名を残す人気女性アイドル歌手に会う機会に恵まれました。
 そのひとりは石川秀美。1982年(昭57)のデビューで、その年のレコード大質新人賞も受賞しています。この'82は今でも"花の82年組"と言われるほど人気アイドル歌手が競い合った時で、中森明菜、小泉今日子、早見優、堀ちえみが次々にデビューしています。もちろん石川秀美も負けず劣らずの活躍をしてデビュー曲「妖精時代」、「夜明けのペーパームーン」、「ヘイ、ミスターポリスマン」、そして最も記憶に残っていると思われる「ゆれて湘南」とヒット曲を連発しました。が、平成に入って芸能界同期のシブがき隊のやっくん(薬丸裕英)と結婚、男の子も産まれてほぼ芸能界を引退した状態となりましたが、ちょうど10年前の青葉の頃、夫婦そろって都内のとある駐屯地にお仕事で訪れた次第です。実はこの石川秀美、デビューした当時はポッチャリした元気はつらつなお嬢さんという感じでしたが、以来10年あまり過ぎお母さんになったホンモノの彼女は見違えるほど美しくなっておりました。これは決して私だけの印象ではなく、近くでお仕事の様子を見ていた教育中の女性自衛官たちの間から「キレイ〜」というささやきがもれていたことが鮮明に記憶に残っています。やがて夕方近くなって幼稚園から帰ってきた男の子がパパ・ママのいる現場にやって来ましたが、あの可愛らしい坊やも今では14、15歳でしょうか。
 さて、もうひとりの方へ話を移しましょう。それは、平成6年の自衛隊音楽まつりにゲスト歌手として参加した本田美奈子です。1985年(昭60)にアイドル歌手としてデビューした彼女は「殺意のバカンス」、「テンプテーション」などヒット曲を連発しましたが、後にミュージカル界に活躍の場を移し、この当時は「ミス・サイゴン」のヒロイン役で不動の地位を確立していました。間近でみる彼女はとても小柄で、どうしてここからあんなに豊かな声が出るんだろうと不思議でたまりませんでした。
 えっ、そういう憧れのアイドル歌手と会ってどんな話をしたかって? もう、テレビの画面でしか見られなかった人を目の前で見られただけで十分じゃないですか。とても会話どころじゃありませんよ。
 今回は70年代の話じゃないねって? ワタシ的には86年に亡くなったあの悲劇のアイドル歌手岡田有希子と、その後に大活躍した本田美奈子と南野陽子(&荻野目洋子)まで、70年代から連綿とつながるアイドル歌手としてとらえているのです。今は絶滅してしまった……なんでだろう?(完)
 長らくのご愛読ありがとうございました。今回をもって一応の区切りとしたいと思います。
     〈最終回〉

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