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   2003年6月15日号
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寄せ書き 入隊所感
女性自衛官教育隊1中 一般陸曹候補学生課程 大丸和美
 入隊式を終えて改めて強く感じた事はまず、自分は本当に自衛官になるんだというしっかりした実感と、国民の負託に応えなくてはならないという責任感でした。そして、身をもってしても職務完遂に努める事の出来る自衛官になりたいと思いました。来賓の方々からのお話の中からも思う事が沢山ありました。それは女性だから…という考えを捨て去り、男性と同等にという事です。精神的な面では同様であっても、体力面では女性はどうしても男性に劣ってしまうという不利な的であると、多くの方から聞いていました。だから、それをカバー出来るように、少しでもその差を縮める事の出来るように努力し続けたいと思います。
 私は物事を人に任せる事が出来ずに、自分ひとりで抱え込み、結局のところつぶれてしまうという事が今までに何度もありました。自分の手で全てやったほうが確実であるという思いや、人の負担を和らげるためだったら、自分はいくら負担してもかまわないという思いからだったと思います。
 今までは苦しくてもひとりでやりきれた事も、ここではより大きな規模の仕事が沢山あり、とてもひとりでは抱えきれないのだという事や、ひとりでやるよりも、みんなでやった方が多くの面でプラスになるのだという事をしっかり自覚していきたいです。そして、仲間を信頼し、共にやり遂げる事の出来る人間になりたいと思います。また、体力錬成等はとても辛い時があるけれど、自分だけでなく、人を救ったりする為にも自分だけ以上の力を身につけ、多くの人のために役立つ事の出来る人になりたいです。
女性自衛官教育隊1中 陸曹候補士課程 酒井美紀
 自衛官の父の影響で幼い頃から自衛官という職業を身近に感じていました。自衛官を一生の仕事にしようと決心したのは、兄が少年工科学校に入って、家に帰ってくるたびに、心身共に逞しく生き生きとしていくので、私も兄のようになりたいと思いました。
 陸曹候補士に合格できた時は涙が出る程嬉しかったです。自衛官になって良かったと思えることが沢山ありますが、第一は新しく人々と出会えた事です。同じ部屋の人と仲良くやっていけるか心配でしたが、今では一緒にいるとほっとした気持ちにさせてくれる程、なくてはならない存在になっています。また班長たちは一番身近な存在で、その時々に応じて優しく指導してくださるので、とても信頼しています。私もいつか班長たちのように、人を指導したり信頼を置かれる自衛官になりたいです。
 第二に時間の大切さに気付いた事です。毎日忙しいですが、はじめは決められた時間までに仕事を終らせる事だけで精一杯でしたが、徐々に自分の時間を作る事ができるようになりました。
 班長、父や兄と比べると自衛官の卵とも呼べないような存在ですが、これから沢山の人たちから多くの事を吸収し、自分のものとしたいです。そして、やる気と大きな声を忘れずに頑張っていきたいと思っています。
女性自衛官教育隊1中 陸曹候補士課程 加藤由貴
 着隊してから約2週間が過ぎましたが、正直まだこの生活に完璧には慣れていません。トイレに行きたくてもいけなかったり、朝も顔を洗うのを我慢しなければならないなど、その厳しさには驚きが隠せません。しかしこれも訓練の一つだと思い今は少しでもそれに慣れるよう、頑張っているところです。班員とも最初はうまくやっていけるかすごく不安でしたが、今はとても仲良くやっています。班員はただの友達ではないので、悪い事をする人がいたら、嫌われるのではないかなどという考えは持たず、しっかりお互い注意し合い高め合っていかなければならないと思いました。
 入隊式は予行をしっかり行っていたせいか思ったより早く時間が過ぎて、しっかりと指導された事を確実に行う事が出来ました。班長がおっしゃっていた「自衛官としての誇りと自覚を持ち、目標をしっかり持ってほしい」という言葉で、これからが本当のスタートラインだと思いました。「昨日よりももっと大きな声を出す」や「腕立てを前日より5回多い数する」など毎日小さな事でもいいので目標をしっかり立て、1日1日を過ごしていきたいと思います。そして自衛官としての自覚と責任をしっかり持ち、1分1秒を大切にし、訓練にも全力で参加し、立派な自衛官になれるよう努力していきます。

「頑張っています」新しい職場
<活躍するOBシリーズ>
援護室で情報収集を
野村證券(新宿野村ビル支店)  高橋 新一
 私は再就職先として接客業を希望し、市ヶ谷基地援護室にお願いをしたところ、幸運にも野村證券株式会社を紹介され、入社に至りました。
 入社前にはただ眺めるだけだった新宿の高層ビルへ通勤し、一流のビジネスマンと勤務することになろうとは思いもしませんでしたが、私としてはこれ以上はない再出発となりました。
 いざ店頭に配置されお客様と接してみると様々な注文があり新人の私には対応しきれず、立ち往生することもしばしばです。その時は総務課の先輩方の適切なアドバイスにより助けられ、徐々にですが対応にも余裕を持って店内の状況を見ながらお客様に接することが出来るようになってきました。
 私が援護室を訪れたのは退官の1年半程前でした。その当時は希望する職種の募集がなく、会社の紹介から内定を頂くまでに約1年待たされました。入社前に研修(導入教育)があれば会社に慣れる事も出来ますが、野村證券では事前の研修はなく、入社後の2週間で研修は終了し翌日からは一人で業務を行うことになりました。
 急激な環境の変化に対応するためには、健康に留意するとともに精神面でも社会人となる姿勢が大切なことと思います。
 就職活動に早すぎることはありません。皆さんも援護室にお茶を飲みにいくつもりで顔を出し、情報収集をして下さい。蛇足になりますが、万一にも会社が合わないと思った時は援護室に早目に相談して下さい。我々の後輩や援護室に迷惑を掛けないためにも必要なことです。
 最後になりましたが、市ヶ谷基地援護室の皆様にはお世話になり感謝の気持で一杯です。<高橋氏は平成14年9月、航空システム通信隊を准空尉で定年退職。54歳>

<回想の70年代音楽>
昭和が終わった日
 ひろか それって昭和64年1月7日でしょ。
 だいき そう言われちゃ元も子もありませんが、昭和を生きた庶民の感覚としては、昭和天皇の崩御をはさんで、前年(昭和62年)6月に亡くなった石原裕次郎、そして平成元年6月に亡くなった美空ひばりと、3回にわたって昭和の終焉を感じたのではないでしょうか。
 ひろか 裕次郎、ひばりの2人にとってそれぞれ70年代は大きな転機だったと思うわ。
 だいき 裕次郎にとっては、斜陽の映画の世界から転じてTVドラマ「太陽にほえろ」、「西部警察」に出るようになり、銀幕の大スターから茶の間(古いなあ!)の大スターへと移り変わった時間であり、ひばりにとっては…
 ひろか そう、実弟かとう哲也の暴力団との関わりが社会問題化(昭和48年)して全国各地の公共施設から閉め出しをくらった冬の時代と言えましょう。
 だいき その後80年代にひばりは「川の流れのように」、「愛燦々」と大ヒット曲を連発し再び賞賛をあびるようになるのですが、本当に人の心の移り変わりはおそろしい。
 ひろか ひばり一家と暴力団の関わりについても、地方興行を取り仕切っていた興行師たちと円滑にやっていく上でマル暴との接触は避けて通れなかったと同情的な見方があります。
 だいき 肉親の縁に薄かったひばりにとって養子の加藤和也氏がプロダクションを守り続けていることは大きな救いではないでしょうか。
 ひろか 話を裕次郎に戻しますと、こちらも80年代に「フランデー・グラス」の大ヒットで再び歌手としても脚光を浴びるようになりますが、残念ながら病魔が…
 だいき 81年夏、裕次郎はたしか大動脈瘤で緊急入院、この時父島にいた兄の慎太郎氏(現・都知事)を急きょ呼び戻すために当時の大村長官の判断で海事US-1が出動したなんてことがありましたが、これは本当に英断でしたね。
 ひろか 戦後日本を象徴する大スターで兄が国会議員だから特別扱いするのかという陰口も多々ありましたが、もし万々一のことがあって兄弟が最後の別れをできなかったりしていたら、逆に出動を渋ったことがめちゃくちゃ叩かれたことは、その後の衰えを知らない裕次郎人気とか見れば明白でしょう。
 だいき 私事になりますが、ぼくらのおばあちゃんが山梨県藤井村(現韮崎市)の国民学校5〜6年生だった戦時中に東京からまき子ちゃんという子が親類の家へ疎開してきて1年下のクラスに通ってきていました。その子は終戦直後に東京へ戻り、やがて北原三枝という人気女優になりました。
 ひろか それが今、裕次郎を「裕さん」と呼ぶ石原まき子さんでした。おばあちゃんの記憶ではまき子ちゃんには弟がいたそうで、あの子は今どうしているかと気になるそうです。

<部外者の声>
師団武道大会を見学
大阪地連・第4期女性防衛モニター 多田由紀子
 「銃剣道(ジュウケンドウ)…?木製の銃剣を使用して試合をするのかしら?写真やテレビで銃剣を見たことはあるけれど…」。自分の持っている限りの情報と、それを上回る量の想像で銃剣道について自分なりのイメージを作っていました。
 私は、今第3師団武道大会の会場に来ています。私がなぜそんなところにいるかというと、幸運にも大阪地方連絡部の第4期女性防衛モニターに当選し、今回の武道大会見学が記念すべき初の活動となったからです。私の頭が、銃剣道一色となっていたことは言うまでもありません。
 会場に到着すると、あちらこちらで盛り上がりを見せるパワフルな応援合戦。熱気と汗の臭いに圧倒され、頭痛がしてクラクラする始末です。応援する人の壁、壁で招待席になかなかたどり着けません。ようやく席に着き、試合を観戦しましたが、ルールがさっぱりわかりません。同行された地連の方に銃剣道のルールや見所のポイント、競技者や各部隊について丁寧に解説をして頂き、徐々に試合がわかるようになりました。
 お昼前には、銃剣道のだいたいがわかってきて、面白くなってきました。特に午後からは、モニター同士のおしゃべりもなく、迫力ある銃剣道の試合に真剣に見入っていました。試合会場に入ってきたときの頭痛はどこへやら、すっかり会場の雰囲気に馴染んでいたようです。よく観ていると、応援に熱が入り、覇気のある部隊が勝っていたようです。最初に感じた異様なまでの(失礼)応援合戦は、競技者の戦闘意欲を鼓舞し、相手を威嚇するような意味があるのかと思いました。
 モニターの中には、「銃剣道をやってみたい」と言われる方もおられました。(私も四十肩でなければ挑戦してみたい。帰宅後、箒のような長い棒状の物を手にして、銃剣道のまねをして空を突いてみたのは、私だけではないでしょう)。
 残念ながら、今日は決勝戦まで観ることはできませんでしたが、このような貴重な体験をさせてもらったことに感謝しています。日頃訓練で鍛えた心身から繰り出される力強い技と、相手との駆け引きで攻撃のタイミングを計る頭脳で繰り広げられる銃剣道。しっかりと目に焼きつけました。

母の想い
京都地連・西院募集協力会員 大隅孝子
 5月10日、私たち夫婦は舞鶴に向かった。長男が勤務している護衛艦「しまかせ」の出港を見送るため。行き先は米国、そして帰港は8月4日の予定である。新緑のそよ風が快い日であった。
 思えば、昨年2月12日降り積もった雪の舞鶴で長男を見送った。当時彼は、米軍の後方支援のためインド洋へ出航した護衛艦「はるな」に乗務していた。凍りつく寒さの中、不安だけが募っていった。憎きオサマ・ビン・ラヴィン氏、早く捕まってと祈っていた。廻りに目をやれば、幼子を連れ赤ちゃんを抱いた若いお母さんが、又、身重の女性が、主人との別れを惜しみハンカチで目を押さえる光景があちこちで見受けられた。どんなに辛いだろう…どんなに不安だろう…親から離れ自立した息子を見送る私達さえそう思うのだから、これからの数ヶ月、夫の無事を祈りつつ、一人で父親と母親の役を担わなければならない彼女たちにとって尚更のことである。
 もう一つ、哀しい別れが目に止まった。それは恋人同士、これから一日千秋の想いで再会のその日を待つのだろう。
 様々な思いが交錯するなか、護衛艦「はるな」は出港して行った。留守家族にとって、舞鶴総監部内に設けられた支援室が、どんなに心強かったことだろう。急用のとさ、本人に連絡がつけられるのだから。私は当初、これだけと思っていた。ところが現地の日常の様子を伝える「駱駝の呟き」を定期的に送ってくれた。また、総監部にお招き頂き、ビデオで元気な様子が分かった。
 そして半年後の8月3日、灼熱の太陽の下、護衛艦「はるな」は無事舞鶴に帰港した。そこには、ひとまわり逞しくなった息子がいた。それから9ヶ月経った今、護衛艦「しまかせ」が舞鶴を出港して行った。私達は、息子の成長を期待し笑顔で見送った。

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